しろばなさんかく

ボカロと音楽のことを書いていきます

#2018年ボカロ10選 後記

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①感傷マゾヒスト / cosMo@暴走P

 

 

ヒッキーPボーカロイド音楽の世界2017のコラムで初音ミク10周年を祝った旧世代と無視した新世代との対照性に触れた後、2018年のボカロシーンにおいても両者の違いは歴然としており、むしろその差異がより分かりやすく提示されていたようにも思えます。即ち、ボカロシーンが築き上げてきた文脈にあくまで拘り続ける旧世代と、それを飛び越えていく新世代、という構図がいまや決定的になったようにも感じるのです。
前者のボーカロイド観は「メゾン初音」などの作品に顕著で、時代が変わっても変わらぬ思い…つまりは黎明期に皆でつくり上げてきた初音ミクのイメージ、みんなの歌姫、創作の輪の象徴としての役割を彼女に担い続けて欲しいという思いが支柱になっています。しかし一方で初音ミクの登場から11年も経っていながら未だに彼女への感謝と信仰告白を止める事が出来ず執着し続けている、と言い換えることも出来、その様子はいささか盲目で自家中毒気味に映る面があることも正しく認識すべき頃合いなのでしょうか。
そんな折、平成最後の夏に暴走Pによって投稿された本作はシーンへの警鐘…と言い切ってしまうのは若干踏み込み過ぎな気はしますが、凝り固まった脳みそに一撃をくれる痛快な作品であったことは確かです。作中、有り得たかもしれない素晴らしい夏、最高の日々を過ごせた筈の夏へ…存在しない幻想に縛られる主人公を指して「感傷マゾヒスト」とポップに揶揄する歌詞は、そっくりそのまま…旧世代のボーカロイド観に対して誰かがぶつけなくてはならなかった言葉と重なります。ボカロシーンにおいて或る種の戦犯でもある暴走Pが、これ以上なく軽やかに役目を担ってくれた事実は、過去の「リアル初音ミクの消失」とも重なる部分があり…なかなか考えさせられるものがあります。殴ってやりたいけど。


かつてのシーンを支えた共通幻想が最早要らなくなり、それが歴史に成ってしまった後の世界と。そろそろ真剣に向き合っていくべきなのでしょう。

 

そうこうしているうちに、もうすぐ平成も終わります。

 

 

 

 

 

 

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申し遅れました。私、しろばなさん、といいます。

 

1年間に投稿されたVOCALOID作品から10作品を厳選し共有する、ボーカロイドファンコミュニティ年末年始恒例行事「年間ボカロ10選」も、早いもので2018年で第10回目を迎えました。

私自身もここ数年は毎回参加していまして、今回も悩み抜き10作品を選びました。
選ぶにあたっていろいろと思うところがあったので、選評と紹介を兼ねた記事を書いています。少し長いかもしれませんが良ければどうぞ、お付き合い下さい。

 

それでは続いて2曲目から!

 

 

 

②swimming club / 3-shima

 

 

テン年代を席巻したEDMの流行を契機とし、ポップミュージックの世界的なトレンドがロックンロールからダンスミュージックへ移行。しかもそれが不可逆な変化であることが決定的となった2018年。従来のJ-POPサウンドとは系統が異なるダンスミュージックの機能的な曲構造、代表的なもので言えば、歌の無いサビとも評されるドロップパートを取り入れた楽曲を耳にする機会が自然と増えてきたのは証左でもあるように感じます。ボカロシーンにおいてもこのドロップパートをどう展開させるかが数々のプロデューサーにとって近年一つの課題となっていましたが、2018年はボーカル・ドロップと呼ばれる手法を用いるケースが増えてきたのは興味深かったと記憶しています。この手法はボーカル音声を刻み・加工し・並べ直してリードシンセサイザー的に用いることでドロップパートを演出する手法で、声の楽器たるボーカロイドとの相性が抜群に良いことが以前より指摘されていたものでもあります。本来はポストEDM系の比較的BPMが速いトラックで好んで用いられる傾向がありますが、チルアウト寄りなトラックに長ける3-shima氏はchilltrapを取り入れたR&Bである本作に用いることで、また毛色の異なる演出に成功しています。歌詞をなぞることの無いドロップパートでありながら、曲名通りに遊泳するが如くノビノビと歌い上げているようにも聴こえ、不思議と説得力のある確かな展開に繋がっています。こういうのがずっと聴きたかったんですよね。また本作ではBPMが徐々に落ちるラストパートの展開もここ最近の洋楽ヒップホップやR&Bのトレンドを踏襲していて、なかなかニクいものがあります。すばらしい。

 

 

 

 

③「死について」 / シャノン

 

 

ポップミュージックの世界的なトレンドが移行する中で、古くから歌謡曲の下地を引き継ぐJ-POPにおいて、いかにダンスミュージックやブラックミュージックの要素を取り込んで現代的なアップデートを果たすことが出来るか?というテーマが国内のアーティスト達に課せられていたのも2018年を語るに避けては通れません。米津玄師の「Flamingo」や星野源の「アイデア」など、いくつか象徴的なナンバーが驚きをもって受け入れられたのも記憶に新しいところです。
翻ってボカロシーンにおいてはシャノン氏のキャリア4作目に当たる本作が印象的で、意識してか知らずか、前3作で研鑽を重ねてきた各要素を統合させる集大成的な側面が、大きな潮流と一致している点も含め非常に興味深いです。特に2作目「私は水になる」におけるジャズ歌謡のノリ、3作目「アンダーグラウンドと地生魚」におけるダブステップのビートといった相反すると評しても差し支えないであろう要素が、一つの楽曲の中で有機的に溶け合う展開は革新的な衝撃があり、またそれらを貫く厭世的な歌詞世界を歌い上げるGUMIの調声にも人間非ざる超越者を想起させるような深い魅力があります。曲中、二段階に変化するドロップパートも哀感を伴った特有のものがあり、非常に惹きつけられます。全編4分に満たない一曲でありながら…聴き終わるとまるで一つの大作映画を観終わったような、静かに深い感慨に自ずと包まれることになるでしょう。これは本当に素晴らしい。余談ですが、年末には宮下遊氏に書き下ろし楽曲を提供するなどシャノン氏自身には今後の活躍を予感させるような動きも見られ2019年も目が離せなくなりそうです。期待です。

 

 

 

④(b)rainwash / Sagishi,HeadNho

 

 

ボーカロイドを用いたHIPHOP、通称MIKUHOPの勃興が既に過去の話となった2018年のシーンでは、ファンが長い間待っていた一つのニュースがありました。それはstriplessレーベルによる3年ぶりとなる「MIKUHOP LP」シリーズ最新作「LP3」のリリースであり、これはかつて「LP1」・「LP2」に集結しMIKUHOP黎明期を創り上げたパイオニア達と彼らの影響を受けた第二世代とが一堂に会するという、シーンの成熟を如実に感じさせる出来事でもありました。SagishiHeadNho両氏による本作もその重要な一角をなすものとしてアルバムに収められています。
本作は、いつかどこかの…知らないはずなのに何故か懐かしい、そんな情緒的な夏の風景を描くリリックに心惹かれるものがあり、多用される体言止めがそのイメージを強化する大きな役割を担っています。
日本語の体言止めを多用するラッパーといえば真っ先にK DUB SHINEなどが挙がるかと思いますが、それとはまた系統が異なる…むしろ、どこか文学的な教養、
アカデミックな詩作の方法論を背景にアプローチを試みている節があり、鋭く光るナイフのようなインテリジェンスが隠せていない…否、隠す気がないあたりに、思わず心の臓を刺されます。フロウもまた特徴的で、単にラップと言うよりはポエットリーディングに近い淡々とした言葉の紡ぎ方がこれ以上なく嵌っているのも、魅力を底上げしていると言えそうです。また本作は二人の同じ非人間MC(さとうささら)によるマイクリレーであり、これは同じボーカル音声でもそれぞれ背後では違う人間が調声を行っているという事実が大前提として共有されるボカロシーンに特有の手法とも言えます。これからもMIKUHOPでは度々用いられていくことになるのでしょう。改めて考えると、ちょっと興味深いと思いませんか。

 

 

 

 

⑤Ghost in a closet/春野

 

 

ビートミュージックの革命児J・Dillaが急逝してから10余年が経過した2018年。彼が遺した音楽はその後彼のフォロワー達に引き継がれ、現在に至るまでHIPHOPの枠に収まらず現代ジャズ・ソウルやエレクトロとも結びついた独自の成長を遂げています。
その主たるものに米国ロサンゼルス周辺で発展したLA BEATと呼ばれるジャンルや、FKJに代表される最先端のフレンチ・エレクトロなどがありますが、本作がそれらの系譜上に位置する点は言及されて然るべきでしょう。単なる模倣に留まらず、国産エレクトロニカが培ってきたセンシティブな音作りに深く影響を受けるボーカロイドエレクトロニカの文脈に合流させようとする姿勢も非常に先進的です。
この手のトラックは何といっても「ヨレるビート」ないしは「モタるビート」とも評される特異なビート構成に特徴があり、グリッドやクオンタイズを活用する規則正しいループ・ミュージックの方程式を意図的に崩した、特有のうねるグルーヴがドラッギーな快感を助長します。本作はどこまでも拡がっていきそうな、しかしベッドルームから出ることは決して無い、いわば…ある種の内省的な小宇宙を描く音の洪水。知らないうちに誰かの夢に入り込んでしまったかのような、背徳感に似た抗い難い魅力が溢れています。タイトルモチーフも実にお見事ですよね。クローゼットと言えば、ルーシィ・ペベンシーがナルニアに始めて迷い込むのもクローゼットの奥からだったのを思い出します。外に閉じている、しかし知らない何処かへ確かに繋がっている箱…或いは道。或いは。或いは。エトセトラ。

流石に故事付け過ぎでしょうか?でも、そういう捉えどころが無い感じ、好きなんですよね

 

 

 

 

⑥ディスコビート・キャスター / ちゃむ

 

 

ファッションやデザインの世界でも近年ブームとなっている1980年代の文化を振り返る試み、いわゆる80sリバイバルと呼ばれるムーブメントが国内の音楽シーンにおいてもジワジワ浸透してきた2018年。
その背景は諸説あり、Satellite Youngテンテンコといった国内アーティストの活躍、vaporwave→futurefunkにおけるマクロスMACROSS82-99Moeshopといったスタープレイヤーの影響、はたまた、最近youtubeが自動再生で勝手に山下達郎の曲を垂れ流しにするから、などなど。まことしやかに語られています。実際のところ定かではありませんが、おそらく全部正しいのでしょう。
なんにせよ、ここにきて80年代の音楽を単なる過去ではなく、一つのスタイルとして捉えなおしてみよう、という気運が高まっているのはなんだか事実のようです。
一口に80年代音楽と言ってもシティポップやテクノ歌謡など、細分化すればキリがないのはさておき、一つの大きなテーマとして横たわるのはやはり、ディスコ&ファンクへの回帰です。
ボカロシーンにおいてもカド丸氏やヘンドリックスSS氏といった先進的なトラックメーカーがそれぞれの回答を提示する中、特筆すべき一曲を挙げるのであれば、ちゃむ氏による本作に触れないわけにはいきません。本作では氏のバックグラウンドと思われる邦パンクから一気にディスコ&ファンクに寄せた実験作の側面もあり、あからさまなほどゆったり、かつグルーヴィーに聴かせることに重点が置かれた、これ以上なく80sリスペクトなポスト・ロックナンバーとなっています。初音ミクの甘いボーカルとファンキーなテレキャスターがメロウに溶け合った陶酔を誘うサウンドはそれだけでも充分お腹いっぱいになりそうですが、サビで4つ打ちに移行する、という王道中の王道、ど真ん中ストレートな場面にディスコビートを持ってくる展開には抗えない魅力があり、これはもうノック・アウトもの。足腰が勝手にリズムを取ってしまいます。そうそう、こういうのでいいんだよ。こういうのが聴きたかったんだよ。最高。

 

 

 

 

➆FOOT MIKU / 磁気P

 

 

2018年は日本のJUKEことJapanese footworkが中心地たるBooty tuneレーベル登場より10年を迎え、国内のダンスミュージックにおける一大潮流としての立ち位置を確固たるものにした事実を再認識させられた年でもありました。このジャンルがここまで長い間受け入れられることになった背景には、本家シカゴのfootworkダンスを国内に持ち込みシーンとして成立させるまで普及に尽力したダンサー達の功績も大きいのですが、JUKE最大の特徴とも言えるbpm80・120・160の異なるリズムの同居それ自体が多様な解釈を可能にするプラットフォームとして機能した点が重要です。より速く、より複雑な展開が要求されるバトル・トラックは言わずもがな、ダンスを排除してチルアウトに寄ったbedroom footworkや、ナードな日本語ブートレグの文化を引き継ぐJuked outなどはほんの一例で、トラックメイカーの舵取りによって表情がそっくり変わってしまうJUKEのポリリズムにはまだまだ底知れぬ魅力が隠されていそうです。
本作の磁気Pこと旅音氏もJUKEの可能性を追求する一人。氏は長年のフィールドワークの成果である膨大な収集音源を使用した音楽制作に定評があるトラックメイカーで、近年JUKEのポリリズムを自身の音楽性に取り入れた楽曲制作に注力していることが知られていました。本作ではサンプリングミュージックとしての側面からアプローチが為されており、贅肉が無くなるまで洗練されたシンプルかつディープなポリリズムに単純音声「ど」「しゅ」「み」「く」が重ねられています。受ける印象はスタイリッシュなダンスミュージックとはまたかけ離れたもので、むしろどこか民俗的でプリミティブな呪術的舞踊、といったところでしょうか。ここでは初音ミクの音声が担っている役割も興味深く、エスニックなスパイスの様にトラック全体を味付けしている点は見逃せません。とてもユニークです。

 

 

 

 

⑧僕は広告代理店に入るよ☆I will be a wizard / Fドア

 

 

何の前触れもなく異才が現われるのはボカロシーンの常ですが、Fドア氏の登場は、2018年のボカロシーンにおける一つの事件だったと言ってよいかと思います。というか、そうでした。氏が一年間にニコニコ動画へ投稿したボーカロイド音楽作品は実に100作を越え、これはかつて全盛期のほぼ日Pに匹敵する驚異的な制作スピードです。本当になんなんだ。(ちなみにほぼ日Pは複数人体制です。Fドア氏は一人。本当になんなんだ。)単純計算で一作にかける時間が平均3日間ほどであることから考えれば、完全に手癖でトラックメイクしているとしか考えられないのですが、その「手癖」一つ一つが30分を超える壮大なアンビエントであったり、非の打ち所無くダンサブルな現代アイドルソングだったり、はたまた理解が追い付かないヘンテコなポップスであったりと、
あまりにも引出しの多い怪人じみた魔力に思わず引き込まれてしまいそうです。現時点でFドア氏の代表作と言えるのが本作。奇怪なPV表現に気圧されて即座にブラウザバックするのはもちろん個人の自由ですが、それはあまりにも早計です。最後まで聴きましょう。全編にわたってなんだか妙な"こなれ"感が溢れているのが分かるでしょうか。

打響音以外の全てのパート、すなわちボーカル、コーラス、ベース、ボイスパーカッションをすべてボーカロイドで完結させる離れ業を行っているにも関わらず、鼻歌で反芻してしまうほど明快なメロディーと進行には例えばNHKみんなのうた」を連想させる、或る種のパブリックさすら感じられ、合成音声ソフトウェアに過度な期待を持っていない…というより、限界値と塩梅を知り尽くしているかのような謎の安定感があります。本当になんなんだ。
本作の歌詞は2018年の時事ネタを拾ったブラックジョークで、人が歌ったら生々しくてとても聴いていられないほどあからさまな言葉の羅列ですが、人間で無いボーカロイドに歌わせることで「うん、まぁいいか……」と無理やり咀嚼させる強引な認識トリックが使われている点も人を食った魅力があります。降参せざるを得ません。本当になんなんだ。

 

 

 

 

⑨00 / puhyuneco

 

 

前年発表の傑作「アイドル」から一年、puhyuneco氏がセルフ・アンサーかつ自身の音楽への総決算として制作したと思われるのが本作です。00という曲名は始点かつ終点であることを示しているのかもしれません。ARCA以降のIDM極北に連なった先端の音響表現を背景に持つと予測される非常に難解なトラックながら、ボーカロイド歌唱の無垢さを最大限に引き出し組合せることで受ける印象が一転、普遍的なポップスへと仕上げてしまう力量は天才の其れと言う他無いでしょう。

本作ではpuhyuneco氏の歌詞に繰り返し立ち現れる人間と動物の対比、初恋相手の君、放課後、夕暮れの風景が反芻され、切なく苦しいモチーフが浮かび上がってきます。つまりそれは、すでにこの世に居なくなってしまった人が初恋の相手だったことに気付いてしまう、あまりにも無情な結末です。

本来、puhyuneco氏の歌詞はそれ単体を読んでも解すことが難しい。というより、誤解を恐れずに言ってしまえば至る所で躁鬱病患者のワード・サラダにも似た接続が為されており、まるで断片に引きちぎられた記憶を追体験させられているような、解しては成らない予感すらします。なのに、それなのに。あまりにも美しいメロディーとコーラスに包まれると、言葉がこれ以上なく有機的に繋がっている事が分かってしまう。
分かった気になってしまう。それが恐ろしい。『名前もしらない時から好きなのは、気のせい。』というフレーズを捻り出すまでの壮絶な感情の旅路が、格闘の痕跡が、分かったような気になってしまうのです。
これは果たして、手放しに称賛を送ってよいものなのか。いま自分は、とんでもないものを聴いているのではないか。継ぐべき言葉をこれ以上持たない事実を悔しく思います。

 

 

 

➉はつ雪 / もり

 

 

ここまで長々と読んでいただきありがとうございます。

最後は私が2018年の最初に出会ってから一年間ずっと聴いていた、もり氏によるとっておきの一曲を置いておきます。ゆっくり聴いていってください。

それにしても、雪景色を描くかすれた合成音声がこんなにも温かく感じるのは何故なのでしょうか。不思議です。ずっと聴いていたい。。

 

 

 

 

 

以下、少し雑談を。

 

私が年間ボカロ10選にかこつけて記事を書くのも今回で4度目にあたり、
当初書き始めたのが2015年末のボカロシーン低迷期であったことを振り返ると
いやはや、なんとも隔世の感があります。時間が過ぎるのは早い。

その間、一緒にボカロを聴いて楽しく遊んだ顔も知らない友人達が幾人も離れていってしまったことを思い出しては、やけに年老いた気持ちになったりもするこの頃です。
ただ、限った話ではありませんが、10代の頃からボーカロイド音楽に親しんできた自分にとって最早ボーカロイド音楽を聴く事は自分の感情や記憶を保存してもらう行為に近く、たぶんこれからもずっと聴いていくことになるのでしょう。そういうものに成ってしまいました。

 


歌っているのが人間では無い、たったそれだけの事実に一体何度救われたことか。
しかし、その信仰告白を捧げ続ける程には幼くも居られなくなってしまった今。
今後はもっとフラットに聴けるようになりたいなぁ…などと思い至る次第です。
2019年はどうやってボカロ曲を聴いていこうかな。

 


さてさて。

 

最後の夏が確かな過去になり

足早に過ぎた秋を追いかけるようにこの冬が征けば。

次の春が来て、平成も終わります。

 


やがて来るであろう「平成ボーカロイドメドレー」動画の登場と

初音ミク東京オリンピック開会式出演に期待しつつ、

そろそろ筆を置こうかと思います。

 

 


それではまた、どこかで。