しろばなさんかく

ボカロと音楽のことを書いていきます

#2022年ボカロ10選 後記

 

#2022年ボカロ10選

 

※2022年ボカロ10選後記はTwitter上のコメント形式で寸評を書きました。

 備忘の為、ブログにも転載します。

※別途、Striplessレーベル『合成音声音楽の世界 2022』の

 「SONGS OF 2022」「ALBUMS OF 2022」へ一部寄稿しています。

 合わせてご確認下さい。

 

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①最先端な関係/ジヲ

 

ボカロとは一体何者か?…シーンの黎明期から大きく横たわる問いに対し、2022年の最先端を軽やかに叩きつける一作。ボカロは人間じゃない、という根本から一切逃げることなく、互いに支えリスペクトし合う愛すべき「隣人」として描き切っている点に、自分とは異なる感覚を、新時代を見ました。

 

 

②ONE NOTE FUNK/亜歌

 

ワンノートの束縛→解放→回帰へと。美しい構成もさることながら、ボカロと人とが並び立って歌うことで、互いの出来ること出来ないことを浮き彫りにさせ、支え合いが圧倒的なカタルシスへとつながっていく。見事な演出と言う他ありません。思わず、音楽って楽しいんだな…と言葉が漏れました。

 

 

③おくすり飲んで寝よう/もちうつね

 

あからさまにフラッシュ黄金期~ニコニコ動画最初期頃をモチーフにしたMV表現なんですが、サウンドのチョイス…というか音色のパレットがクリーンに現代へアップデートされてて、脳みそがバグりそうになっちゃう。ビートがデカい。ウィスパーボイス心地よい。令和にマウス絵紙芝居やめろ!(最高)

 


④HYPERMARKET/キツネリ

 

ボカロ聴いてて久しぶりに新しいポップネスを感じた一作。ピノキオピー作品にも連なる…核心の外縁を執拗にリフレインすることで逆説的に浮かび上がらせるリリックと、シネマティックなMVの相乗が個性的。サビ始まりのロケットスタートで2分半終幕なスピード感の中で、抜群に緩急効いてるのもすごい。

 


⑤僕らは夏の匂いに溺れるだろう/?????

 

真夏の壮大な社会実験の様相を呈した無色透名祭にあって、一際興味をそそられた一作。モタって揺れるビートに、寄せては返す波のようなリフが心地よく、夏特有のじっとりした気怠さまでも描き出していきます。投稿規定の白サムネイルが図らずもいい味を出しているのも◎。作者不明。だがそれが良い。

 

 

⑥愚夏/河相遊胤

 

ここ数年のボカロシーンではひと昔前に比べてジャズサウンドの受容が変化してきていると思っていますが、2022年それを如実に感じたのが本作でした。ラテン~ブラジリアンジャズを指向する凝ったサウンドメイクは尚のこと、ボカロ的なルサンチマン/感傷が交じった硬いリリックがクールに同居するのは新感覚。

 


⑦かなわないわ/ど~ぱみん

 

エレクトロスウィング作家としても有名などーぱみん氏による異色な歌謡曲!…として捉えがちな一作ですが、そもそもエレクトロスウィングの参照源たるヨーロッパの古いジャズこそが昭和歌謡にかなり濃く影響を及ぼしている経緯をおさらいすると、解像度が如実に上がってくる気がします。温故知新かも。

 


⑧シュガーハイヴ/雄之助

 

サウンドの流行が移り変わる中、ベテランボカロPがいかにそれらと向き合うか?という重要な視点があるかと思いますが、特に取り上げたいのがこの一作。氏本来のサウンドロゴや定番曲構造を維持しつつ、冒頭のジャジーな刻みやサビ後ピアノフレーズにミクスチャーな落とし所を見つける感覚は流石の一言。

 


⑨深い刻にて/Kuroneko Lounge

 

ビヨンセやドレイクの仕事を待たず、フロア再開と共にハウスミュージックへの回帰が謳われたことは2022年のクラブ・トレンドでしたが、見事に同期してたのがこの一作。EDMを超えてきたボカロハウスから、NY・シカゴを夢想する軽快なサウンドメイクは感涙モノ。繋ぎしろを残すホスピタリティもいまや感慨深い。

 


⑩私じゃなくてよかった/ふなばら

 

初音ミクを喪ってしまったとき、その葬送の歌をうたう歌手が誰で在って欲しいのかを考えたとき、相応しいのはやはり「初音ミク」だった。。。ハイコンテクストながら、当人にとっては単純で明快で血涙の滲む帰結を、描ききる胆力に心からの敬意と弔意を捧げたい一作。この曲に出会えてよかった。

 

 

#2021年ボカロ10選 後記

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※2021年ボカロ10選後記はTwitter上のコメント形式で寸評を書きました。

 備忘の為、ブログにも転載します。

※別途、Striplessレーベル『合成音声音楽の世界2021』の

 「SONGS OF 2021」「ALBUMS OF 2021」へ一部寄稿しています。

 合わせてご確認下さい。

 

 

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アイロニーナ/煮ル果実

 

hyperpopやレイト80sとも同期するところの、いわゆる過剰なポップネスをボカロシーンにおいて体現したであろう一作。目眩くビビッドなMV表現はなおのこと、チープなシンセもダンスビートも輪郭線がクッキリ見えるかのようで、浮世絵を連想させるような特有の聴き応えがある。エチゾチック。

 

 

②ロウワー/ぬゆり

 

ボカロ的エレクトロスウィングの発展最新型。徹底されたスウィングの刻み、動き回るベースライン、スパイスとしてのブラスセクション…というよりむしろヴォーカルをブラス的に捉えたメロディ構築なのか?といった諸々の要素が、プロトタイプたる「フラジール」から5年を経てかなり自覚的にアップデートされていて圧巻の極み

 

 

③deco/つくの

 

Ayase以降のボカロシーンを見渡すとリズムトレンドとしてミドルテンポなスウィング/シャッフルビートの比重と練度が年々増してる気がしますが、この曲はそんな中でも2021年に特に聴き込んだ作品でした。細かいハイハットの配置と出し入れ緩急のこなれ感が、ゆるいMVと相まってひたすら心地良い。

 

 

④幽霊/KAIRUI

 

トイ/フォークトロニカ、或いは吐息のひとつでさえもASMRというバズワードの前に整列させられ厳しく再査定を受ける時代性。音の粒立ちにそれが透けるほど偏執的な作り込みながら、あくまでボカロなエレクトロポップの枠内にキッチリ収めてくるのがニクい。後半のフュージョン・ハウス的な飛翔感も最高。

 

 

⑤808の残滓/星宮スイ

 

「808」と言えばクラブミュージックの歴史を変えたドラムマシンの名機TR-808とそのサウンドが持つ意味、象徴性を指すのは言わずもがな。そのレファレンスからの大胆な飛躍というか…ソーシャルな「chill」や「エモ」へと難なく接続して一つの哀感に落とし込んでしまうミックス感覚が非常に現代的で◎

 

 

⑥シチューがおかずになるなんて/ondo

 

コロナ禍での現代ジャズ・エレクトロに通底するキーワードとして「内省」があったわけですが、ルーツを遡りすぎていささかスピリチュアルな趣すらあったUS/UKに比較しても、明け方の食欲に思いがけず宇宙を発見してしまうこの曲はとても豊か、かつユニークでした。それぞれの場所で生活の祈りがある。

 

 

⑦ジョーク/青屋夏生

 

MVの情報量が多すぎる。たくさん笑わせてもらいました。シニカルな視点と初音ミクの平熱を保った歌唱が普遍性を飲み込みながら一周回ってきた結果、なぜかどちゃくそ真っ直ぐな希望に接続するという…ボカロ版のホープパンクと言うべき傑作。青屋夏生の真骨頂でしょう。唐突に出てくる三県境も好きです

 

 

⑧殺して見せろよ音楽で。/樫本鳴葉

 

最近のボカロにありがちなことを挙げ連ねるという…発想としては何てこと無い曲?でありながら、20数点にも及ぶ鋭い抽出に怒りと熱情の殴打が加わり、図らずもシーンの現在地を活写してしまった怪作。上張りの諦念では全く誤魔化しきれない大きな感情。それがいつかまた浴びたくなって、再訪してしまう

 

 

⑨代用品は代替品/semicolon

 

ボカロシーンとメジャーの切分けが最早不可能なほど越境が進み、AI歌唱合成も突詰めれば辿り着くのは肉声に他ならないことが判明した2021年。つまるところ我々が愛してきた合成音声とは一体何だったのか。代替出来ないそれは「誰」に成ってしまったのか。そろそろ断罪される日がやって来るのでしょう。

 

 

⑩九月の青空さえも/鈴木凹

 

合成音声によるクワイアが何故こんなにイノセントに心の臓を締め付けるのか。また一年考えてみましたが、答えは出ませんでした。なんもわからん。何時かの何処か、誰かの追憶に感傷を預けながら。存在しない記憶に涙を流しながら。これまでもこれからも、何度だって人間になりたい。そう願っています

 

 

#2020年ボカロ10選 後記

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※2020年ボカロ10選後記はTwitter上のコメント形式で寸評を書きました。

 備忘の為、ブログにも転載します。

※別途、Striplessレーベル『合成音声音楽の世界2020』の

 「THE 50 SONGS OF 2020」「THE 30 ALBUMS OF 2020」へ一部寄稿しています。

 合わせてご確認下さい。

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①ボッカデラベリタ/柊キライ

 

一聴したら忘れないキャッチ―なリリック、ダーティーで刺激的なビジュアル。洋楽の中心地=トラップビートのヒップホップと同期しているように思えながらも、「よりシンプルに/普遍的に」が叫ばれるあちらさんのビートメイクに対し真逆を突き進んでるのが非常に痛快。これでもかってくらいの足し算。

 

 

②シェーマ/Chinozo

 

シャッフル気味のビートにリリースカットピアノを足してグルーヴを作ると即ちエレクトスウィングに成るっていうのは最早常識になってしまったわけですが、原義から離れて過剰に適応した結果、トラックが脱臭されスリムで清潔になるっていうのはボカロ特有だなぁ…などど思ったりしています。

 

 

③KANASHIBARI/ゐろは苹果

 

いよわ以降の系譜である不協和音をまとった異形のポップスは突然変異的なものかと思われた節もありましたが、普通に再現性があるところを見ると、おそらく根底にある楽理というか、調律感が単純に別系統でアカデミックな下地が要るからアバンギャルドに聴こえるのかもなぁと思います。まぁよくわからん

 

 

④衛星少女/雨漏りP

 

ポストEDMはbasshouse方面に収束していくかと思えたものの、最近の動向を見ると、どうもそこを経由してさらに2step/GarageといったUKローカルへと揺り戻っていってるような感触があります。より鋭く、舞う様に、スタイリッシュなビートへと洗練されていくのでしょう。カッコいい。

 

 

⑤ディスコ/tama

 

レイト80sも2020年は大分流行ってた印象。その象徴とも言えるディスコを題材にタイトルそのまま直球でぶち込んでくるのは流石にシビれます。「これが俺の考えるディスコだ、聴け」と言うわけで、面倒くさいおじさんに絡まれても倍以上の力で殴り返す自信が無いと出来ないですよね。怖い。圧がある。聴こう

 

 

⑥『バラードじゃ物足りないわ』/Noz.

 

踊るという行為への解像度が足りない…というのはボカロ経由ダンスミュージックが良く言われること。そんな批判をぶっちぎるが如くこれでもかと肉感的なパワーを感じさせる見事なナンバー。ファンキー。このグルーヴならもっと音が汚れていて欲しい…とさえ思っちゃうのは我儘なので忘れてください。

 

 

⑦ヤミタイガール/れるりり

 

いわゆる丸の内進行の大流行を見かねて、ついに古参ボカロPが立ち上がった!?…のかどうかは定かではありませんが。明らかにやり過ぎてパクリと紙一重の逸品を作ってしまった事件の記録です。良いのか?こっぴどく怒られるんじゃないか?とこちらがヒヤヒヤするくらいの円熟っぷりは他の追随を許さない。

 

 

⑧新約;ストレイシープ/NARUMI HELVETICA

 

シューゲイズな音像、日本語詞のチョイス、ミドルテンポの緩いビートといった…どこか柔らかさを感じさせる構成には見覚えがある気がします。nobleとかZoom Lens辺りを参照しているんでしょうか。気になりますね。この辺りの日・米のエレクトロニカがミックスされた感じ大好物なのでもっと聴きたい。

 

 

⑨11 Vapor Lamp/歩く人

 

派流として生まれたsignalwaveですが、youtubeがこのままパブリックライブラリーの側面を維持する以上は、奇をてらわずとも感傷に訴える分本家より長生きするかもなぁ…と妄想しています。それにしても、歩く人はこの手のマイナーな音を歌モノポップスに落とし込むのが上手過ぎる。寄り添うボーカル◎

 

 

⑩おもしろいいきもの/ふるがね

 

不気味さと紙一重の…創られた純真を指してイノセンスと呼ぶのか否かについてはもはや語るべき言葉を無くしてしまったこの頃ですが、人間が歌うとどうしても純度が薄れる、嘘が伴ってしまう領域に位置する楽曲については、やはりまだ暫くはVOCALOIDの独壇場だろうなと。思い知らされる次第です。

 

 

 

#2019年ボカロ10選 後記

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①本当は演奏家たちとともに/imie×ばらっげ

 

 

 

VOCALOID聴き専ラジオのパーソナリティNezMozz氏がVOCALO CRITIQUE vol.4に寄稿した論考「ディアスポラ、第一便」を読み返すと、当時のボカロシーン居住地…即ちニコニコ動画初音ミクという絶対中心地からの離散行動が2012年の時点で既に始まっていたことが指摘されており、その離散(ディアスポラ)とはネガティブな意味ではなく、むしろ離散者自身にも自覚がないほど遅効性の種蒔きに近い行為…ある種の革命の前兆であることが予見されています。

また続く2013年、永野ひかり氏の論文「フリーミュージック/フリーコンテンツ
—インターネットレーベルと初音ミク現象に見るコンテンツ制作者の未来
」では、NezMozz氏の指摘を背景に、初音ミクニコニコ動画という、いわば”実家”を起点として再出発する意識こそが新たな固有価値を生むことに繋がっていくことが述べられていました。

時は流れ、前述した2つの論考がボカロシーンの前半を語ったものに過ぎなくなるほど無慈悲に時間が経過した今となっては、それらの予見は大筋正しかったと言えそうです。国民的アーティストとなった米津玄師は言うに及ばず、後に続くポスト米津ボカロ転生型アーティストが国内のシーンを席捲、ボカロを踏み台にクリエイティブ産業へ進出する例はいまや何も珍しいものではなくなり、情報感受性に優れた若い世代を一括りにするバズワードとしての「ボカロネイティブ」が引用抜きで成立するほどになった現状を見ると、ずいぶん年をとってしまったなぁ…とやけに老爺めいた感想が漏れてしまいます。

ではボカロシーン黎明期の熱狂が確かな過去になって久しい今、我々が立っている地点は一体どうなっているのか。
誰かが答えなければならなかった問いを正面から受け止めたのが、まさに本作といえるでしょう。

 


雄大なロックバラードを伴い、唸るように咆えるように初音ミクがなぞるのは、いつの間にか遠くなってしまった「あの頃」からの距離。


即ち…かつて皆で一緒に聴いていた筈の音は、もう聞こえなくなってしまった…。

明確で残酷な事実。

 


それだけが何度も、何度も。

何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

繰り返し伝えられます。

 

タイトルにもある「演奏家たち」とは、ニコニコ動画初音ミクを奏でる創作者のみならず、聴衆やその時代の空気までを包含した多義語であることは疑いようもありません。そこまで理解が至って始めて、あの頃の我々は、そこに一人の女の子がいることにしよう、という幻想に魅せられた共犯者であったのだと気付きます。

 

 

 

知っていますか?
共犯者って、この世で一番親密な関係なんですってよ。
焼焦げは消えても、痛みは消えてくれないんです。

 

 

 

 

 

 


お元気にしていますか?

 

 

 

 

 

 

 

 

先に挙げたNezMozz氏の論考は、「今は第一便が出発し始めたばかりです」と結ばれていました。それから今に至るまで、一体いくつの便が出ていったのか?もはや数えることすらおぼつかないまま、残り香と、肌に纏わりつくその湿度を、もう少しだけ感じていたいな…なんて。最近はそんなことばかり考えています。

 

 

 







 

 

 


初めましての方は、初めまして。
またお会いした方も、初めまして。

 

初めまして。
初めまして。


もう一度初めましてしましょう。
何度でも初めましてしましょう。

 

 

 

 

申し遅れました、私、しろばなさん、といいます。

 


1年間に投稿されたVOCALOID音楽作品から10作品を厳選し共有する、ボーカロイドファンコミュニティ年末年始恒例行事「年間ボカロ10選」も、早いもので2019年で第11回目。星の数ほど膨大な作品群からたった10作品に絞り込むのは毎年本当に大変ですが、せっかくなので自分自身の備忘も兼ねた選評・紹介記事を今回も書きました。

 

少し長いかもしれませんが良ければどうぞ、お付き合い下さい。

 

それでは続いて2曲目から!

 

 

 


②YY/23.exe

 

 

新興音楽ジャンルがその発展過程において伝播先のお国柄・コミュニティ特性といったある種の”捻じれ”を取り込んで変容していく様は常に興味深いものとして在りますが、それは国産のfuturebass(フューチャーベース)というジャンルでも同様でしょう。日本のゲーム・ミュージックがイメージソースとして活用されながらも海外から逆輸入的に伝わってきたという独自性、いわば二重に”捻じれ”た特徴がもたらす魅力は、2019年現在既に広く共有されています。
snail's housekawaii futurebass を創造したのち、一時は単なるブームとして消費されるかに思われた時期もありましたが、あれやこれやのうちに気付けばいつの間にかインターネットミュージックの重要な一角を占めるものとしてずっしり定着した感があります。ボカロシーンにおいてはかねてからシーンの柱の一つであるテクノポップ/ダンスポップに加えエレクトロニカ等の近傍ジャンルと接近・合流を繰り返しながら発展を続けていることが特徴的で、2019年はfuturebassの音色でつくるハードコア…いわゆるfuturecoreへの挑戦や、ワブルベースの厚みを応用して浮遊感を強調する形態など、様々なアプローチが日夜繰り返されており非常に楽しい1年でした。そんな群雄割拠な作品群の中でも白眉と言えるのが本作で、シーンの中枢で常に音楽性を更新してきた23.exe氏の作品群の中でも特異な1曲です。
futurebass由来のシンセサウンドを完全に咀嚼しながらも、型となる曲展開を意図的に崩し、全編にキャッチーなパーツを散りばめ、流暢なボーカロイド・ラップによってスムーズに繋いでいく曲展開はもはやfuturebassの括りで捉えることは困難で、氏のキャリアを横断するブレイクスとして捉える方が自然かもしれません。
その強烈な”捻じれ”がもたらす魅力の大きさは、ニコニコ動画よりもyoutube版における当作品の反響(多くが海外からのアクセスと思われる ※執筆現在)を見た方が一目瞭然でしょう。こんなところにも時代の変容を感じます。必聴。

 

 


③TOKYO NIGHT(80s-10s)/シカクドット

 

 

2019年を語るにあたり避けては通れない重大なトピックとして、シティポップ再評価future funkの台頭があります。vaporwaveのカルチャーを出自とするNight tempoマクロスMACROSS 82-99達の海外アーティストによって日本の…特に1980年代のシティポップが優れた参照源として見出されたのを大きな契機に、ムーヴメントが国内のアーティスト達と呼応しながら、ワールドワイドな80sリバイバルの空気も手助けして大きく拡大していったのが肌で感じ取れるほどでした。

和モノレコード流通価格の大幅な値上がりによって阿鼻叫喚の情報戦が繰り広げられるフリーマーケットサイトの光景や、還暦をとっくに超えた竹内まりやの紅白歌合戦初出場、といった象徴的な事件は後にも先にも出会えそうにありません。
本作はそんな結節点となる2019年の空気感をこれ以上なく表現する1曲で、前半が80年代シティポップ風のパート、後半は前半を踏襲しながらfuture funk風にアレンジしたパートの2部構成となっています。

グルーヴィーに甘いディスコ・ファンクとフォークが融合するメロウな曲調に浸っていると、突如テンポが上昇して解像度の高いキックが鳴り響き、一瞬でダンサブルな
フロアの真ん中へ誘導される展開は、並び立つ両ジャンルの関係性をこれ以上なく明快に伝えてくれます。

ラジオ・ネオン・ハイウェイ・スマートフォン・メッセージ…といった言葉遊びや、
後半パートのワザとらしいDJエフェクトなど、記号的な表現がこれでもかと乱舞し30年のタイプスリップが行われる中でも、お構いなしに歌い続けるVOCALOID歌唱の健気さと信頼性が逆説的に浮き彫りになるのも面白いところです。

失われた10年が20年になり…いつのまにか30年に延長されつつあるのを目の当たりにしている世代にとって1980年代の空気感を今と地続きで捉えることは相当困難で、エキゾチックな”何か”でしかないことが証明されてしまった時代、このムーヴメントはしばらく続きそうな予感もします。

 

 


④幽霊東京/Ayase

 

 

VOCALOID音楽メインストリームにおける主要リスナーはティーンエイジャーであることから、そのトレンドも中・高の3年タームに合わせて変容していくのでは?という予測が、かつてはまことしやかに語られていたことを思い出します。ここで求められるボカロっぽさ・ボカロらしさという概念の起こりを、不世出の天才wowakaが高速ボカロックという形態を発明した2010年前後に置くとすれば、kemuじんの二大巨頭がその方向性を極限まで発展させたのが13年、一転してミクスチャーやラテンビートを取り込んだダウナーなダンスロックが新たな可能性を示し始めたのが16年頃なので、いま振り返ってみると実は結構的を射た説だったのかもしれません。

では、ここから当然の如く発生する疑問、16年からちょうど3年目に当たる2019年、ボカロシーンの方向性を象徴していたのは一体何だったか、いや…”誰”だったか?という問いには、間違いなくAyase氏であったと答えたいと思います。

氏の作品を聴き返すと、高速ボカロックの文法に忠実な初投稿作「先天性アサルトガール」からわずか1年の間に、先人達が培ってきたメインストリームの方法論が物凄いスピードでトレースされていることに気が付きます。その圧倒的な研究量に裏打ちされた非凡なバランス感覚こそが氏の武器であり、その強度が遺憾なく発揮された結果が本作だと言えるでしょう。

ディスコ&ファンクとミクスチャーロックを消化したミドルテンポのダンスビートに、伸びやかなリードシンセ、ファンクギターのカッティング、16年以降の流行を引き継いだ内省的な歌詞とビジュアルイメージといった諸要素が効果的に溶け合い、特有の”キレ”とでも形容すべき快感があります。

かつてwowakaが示した”ボカロっぽさ”の本質が、単位時間当たりの情報量を極限まで増加させることにあるとすれば、Ayase氏のアプローチは足し算と言うよりむしろ引き算に近く、いかに上品に音を引いて緩急をつけるか、用意された手札をどのタイミング
で切るかの判断の正確さによって単位時間当たりの情報量を相対的に操作しているようにも思えます。これは非常に面白い。
Ayase氏は今後2020年ネクストブレイクアーティストに挙がってくる存在であることは間違いないと思うので、その動向により注目していきたいですね。

 

 

 

ホーリータウン/月本

 

 

 

2019年は、J DillaNujabesを源流に掲げるインストゥルメンタルのHip Hop、いわゆるLo-fi Hip Hop(ローファイ・ヒップホップ)が国内で影響力を増してきたことも語られるべき変化の一つです。これはテン年代中盤を席捲したEDMをはじめとするパーティーミュージック、いわば”ハレ”の音楽がトレンドの先端から退場していくのと入れ替わるかのように、ヒーリングミュージック的な”ケ”の音楽の需要が高まってきている事実と無関係ではないでしょう。国内においては「音楽と日常の共存」を掲げるDJ OKAWARI達のアーティストが長年高い評価を受けてきた背景に加え、ここ数年で一気に普及したspotify等の音楽ストリーミングサービス、youtubeのライブストリーミングチャンネルの一般化などの事情も後押しに一役買っていそうです。

生活のあらゆるシーンで常に音楽を聴くという娯楽がより廉価に大衆化していく中で、能動的に音楽を聴きたくない時も何か素敵な音が流れていてほしい…という贅沢な悩みまでもが徐々に浸透しつつあり、実は丁度良い解答になっているのかもしれません。

 

本作はLo-fi Hip Hopのシーンを代表するレーベルの一つであるChillhop Musicが掲げるChillhop(チルホップ)のフォーマットを下敷きに制作が行われていると考えられ、前々項③のシティポップ/future funkにも頻出の「いつかどこか、ここでは無い場所」の象徴として、都市景観を合成したメランコリーな空気感の演出がなんともお見事です。

包み込まれるようなサウンドの中で泳ぐようにねじ込まれるベースの響きはまるでずっと泣いているかのようで、VOCALOIDという何物でもない歌手の甘い歌声と寄り添いながら溶け合っていきます。

ここでは歌われているのがあなたなのか、君なのか。夜なのか、昼なのか。現実なのか、夢なのか。それらの歌詞に一貫した意味を求める行為すら、ひどく無粋なものにすら感じられ、この上質な虚無に浸ること。それこそが正しいとすら思えてきます。
ダンスすることを求めない、強いメッセージで啓蒙してくることも無い音楽。それがやけに優しく感じるというのも、時代の変化を感じてなんだか面白いですよね。

 

 

 

⑥エゴ/sasakure.UK

 

 

日本におけるJUKE/footwork(ジューク/フットワーク)がシーンとして成立してから10余年。シーンの内部で培われてきた方法論が他ジャンルへ波及する例が徐々に見受けられるようになってきたのも2019年の重要なトピックでしょう。女王蜂の「火炎」、神山羊の「Child Beat」などメジャーアーティストがJUKEのリズムを引用した新しいタイプの楽曲を発表し始めていることに加え、DJプレイの分野でもその受容に変化が起き始めています。

JUKE/footworkでは元来BPM160を基準テンポと捉え、ポリリズムやハーフテンポへの展開を交え緩急を織り交ぜたトリッキーなプレイスタイルを基本とする文化がありますが、近年ではfuturebass・jerseyclub等、同様のbpm帯を基準に持つ近傍ジャンルを包含・横断しながら展開するプレイスタイルがベースミュージックの愛好家達を中心に、単に「160」というシンプルな呼称に回収されつつあり、これからなにか大きな流れが起こる前兆を見ているような気もしてきます。

本作は、そんないまがアツい「160」の方法論を、いまやボカロシーンにおけるレジェンダリー・アーティストとなったsasakure.UKがここにきて自身の楽曲に取り入れたという点で革新的な衝撃があります。

氏本来の持ち味である柔らかく雄弁な電子音の表現は健在で、そこに瞬間的に挟みこまれるクラップ音、多用される奇数連符、高速ハイハットなど「160」を象徴する要素が効果的に、全く隙無く配置されており、聴きごたえ抜群の仕上がりとなっていて思わず舌を巻くほかありません。

また特筆すべきは楽曲主題との一致度で、かなりトリッキーで複雑な筈の曲展開が、歌詞が語る焦燥感や終幕への疾走感を強調する心情表現として完全に嵌っており、ここにきて日本のJUKE/footworkが長年の課題としてきた日本語歌モノとの相性という面から
見ても独自の解答に辿り着いている点は高く評価されるべきでしょう。こういう曲を聴くと本当にワクワクが止まらないです。

 

 

 

⑦Tweedledum and Tweedledee/nina

  

 

VOCALOID音楽に好んで用いられるモチーフの一つに、少女性の象徴である「アリス」があります。VOCALOIDキャラクター達はあらかじめ与えられた年齢設定から年を重ねる事が無いため、初音ミク鏡音リンをアクターとして歌わせる物語音楽と相性が良いらしく、専用の検索タグが生まれるほど数多くの作品がこれまで制作されてきました。
本作にもアリス役に初音ミクが充てられており、既存作品と同様の発想からスタートしているように見受けられます。ただ面白いのは、そのアプローチ方法の明確な違いです。イメージソースとしての引用では無く、ルイスキャロルの原典を直接参照している点に着目すれば、劇伴音楽の一種として制作されたと捉えるのが妥当かもしれません。とても硬派ですよね。
劇伴音楽と言えば、近年はクラシックやアコースティックなサウンドの教養を備えながらエレクトロニカの手法を積極的に取り入れる一派…いわゆるポスト・クラシカル作家と呼ばれるアーティスト達が席捲しているのは重要なトピックです。この一派に属するヒルドゥル・グドナドッティルの劇伴が映画「JOKER」でアーサーのバスルーム・ダンスのシーンを生んだエピソードなどは、彼らの作法がいかに優れた表現力を備えているか如実に物語っているとも言えるでしょう。

話が逸れました。

本作を手掛けたnina氏においても、過去の制作履歴を辿るとどうやらポスト・クラシカル作家に近しい経歴であるのかもしれません。
本作では鏡の国のアリス第4章「トゥイードルダムとトゥイードルディー」のエピソードに沿って、

アリスが双子に出会う→会話をはぐらかされる→何故か3人で踊りだす→双子が決闘の準備をする→大きなカラスが現れて全て有耶無耶に 

以上の流れが淡々と展開していき、冒頭のシンプルさに油断すると気付けばどんどん奥に引き込まれているディープな感動があります。古典ファンタジーに特有の空気感すら
忠実に描画しているようで、思わずニヤニヤしてしまいます。すばらしい。出逢えて本当に良かったと思える1作です。

 

 


⑧嘘のない世界を/Apple Kadenz

 

 

ここ数年VOCALOID音楽を掘っていると時折見つかるのが、作曲者が自らの過去作品を参照するセルフ・アンサー的な楽曲です。投稿10周年を契機にリメイクやリミックスを行った作品や、過去に扱った主題やモチーフに改めて向き合い直す作品などがあり、ずっと聴き続けてきてよかったなぁ…と心底嬉しくなってしまいます。リスナー冥利に尽きるとはこのことですね。
本作は先に挙げた後者に該当し、Apple Kadenz氏の前名義での傑作「私はクズです」の実に6年半越しのセルフ・アンサーとなっています。「私はクズです」といえば過去にれるりり氏の脳漿炸裂教室(なつかしい!)でも題材として取り上げられたことがあるのを覚えている方もいるんじゃないでしょうか。

辛口がウリのこの企画において、ほとんど唯一と言って良い「お前の曲はレベルが高すぎて、理解できるリスナーがあんまりいなかっただけの話だ。」という評価と、反響を気にせずに好きなことをやった方が良い、という柔らかいアドバイスが添えられていたのを思い出します。

このエピソードは、れるりり氏がこの後商業作家として成長していった事実を踏まえると、彼の芸術に対する哲学と人間性が垣間見える貴重な一幕であると同時に、Apple Kadenz氏が当時のボカロシーンにおいていかに異質な存在であったのかを如実に物語っているとも言えるでしょう。


膨大な音楽聴取歴と古楽への深い教養に裏打ちされた氏の音楽性は非常に難解かつ常に発展を続けており、本作においてはメリスマ唱法と呼ばれる手法が取り入れられている点は見逃せません。
この手法は古楽や民謡などに多く見受けられる1音節に多音譜を割り振るもので、ざっくり言ってしまえば、すごく長い”こぶし”に近い唱法です。これによって何が起こるのかと言うと、同じ母音を上げ下げしている最中に歌詞の進行が止まる為、氏本人が言うところの”言葉の痙攣”が発生し、声と音そのものの強度が剥き出しになる効果があるのです。
氏の調教によって本質が剥き出しにされた猫村いろはの歌唱から受ける印象は、もはや歌声と鳴き声の同居に近く、動物的な何かにすら聴こえます。ここではVOCALOIDという楽器が持つ特性、人間のようでありながら人間では無い特殊性と図らずとも同期している点が非常に印象的で興味深いです。6年半ぶりのアンサーに相応しい重みが、ずっしりと伝わってきます。

 

 


ネトゲワスレ/てんき

 

 

DTMの発展が果たした功績の一つに、匿名の誰かのささやかな感情を乗せた歌、本来であれば決して表に出てくる筈がなかったアマチュアリズムに溢れる室内楽、それらを表出させる大きな契機となった点があると思います。今でこそ、例えばBillie Eilishが未だに実家のベッドルームで曲制作を行っているエピソード等が肯定的に広く語られるようになっていますが、本来はひたすら内に籠って誰の為でもない楽曲制作を続けるという行為は、祈りに近い意味を持つ”何か”であったのだろうな、と想像することが出来ます。聖書にもそんなような一節ありましたよね。知らんけど。
近年では、このような言わばギター・ミュージックを通らずに直接DAWプラグインに接続する様な室内楽TINY POPと呼称して一つのジャンルとして捉える動きも起こり始めており、なかなか興味深い状況になってきています。

ボカロシーンにおいてこの手の室内楽は黎明期から常に細く長く絶えず供給が続くジャンルでもあり、アンダーグラウンドIDMを指向する制作者もいれば、合成音声の
イノセントな歌唱を用いた箱庭的ポップスを指向する制作者もいて、その多様性は個人的にもVOCALOID音楽を掘る大きな動機の一つになっています。
本作は重度のオンラインゲーム愛好家でもあるてんき氏による連作の一つで、おそらく当初は”ネトゲ”にはまりこむ自分、それを閉じ込める部屋の密室感という、パーソナルで俗な対象を俯瞰で描画しようとする試みであったと推測されますが、曲の進行とともに俯瞰目線が徐々に内へ内へ向かっていくうちに、なぜかいつのまにかポップスの宇宙に接続されているという、ちょっと意味が良く分からない展開に、気付けば魅了されてしまっています。すごい。なんだこれ。こういう曲があるから、ボカロを聴くのはやめられないんですよね。

 

 

 
⑩akane/puhyuneco

  

 
海の幽霊」ほか諸作品によって、デジタルクワイアと呼ばれる手法が国内での認知度を上げたことも2019年で特筆すべき点です。プリズマイザーと呼ばれるボーカル・エフェクトの開発に端を発するこの手法は、一つの歌声からソフトウェア解析を用いて重層的なハーモニーを生成する手法で、かねてより米国ポップスにおける歌唱表現の幅を大きく変えてきたことが有名です。

翻って、あたかも一人の歌手から複数人の歌手を創り出す様なこの手法の特徴を鑑みると、同じ歌手を複数トラックで鳴らすことが機能的に容易なVOCALOIDと実は相性が良いのではないか?そんな考えが頭の中に持ち上がって来たところで、実はpuhyuneco氏の過去の楽曲「アイドル」「00」で見られた特徴的なコーラス・ワークがまさにそれであった事に気がつきます。

そんな、ようやく理解が追い付き始めた頃の我々の前に姿を現した本作では、puhyuneco氏の音楽性が既にもっと奥へ、さらに深淵へ進んでしまっていることが判明します。
本作におけるデジタルクワイアは過剰方向へ振り切れており、もはやクワイアという言葉で表現するのが難しいほどの声の集合体です。過去・現在・未来のあらゆる感情が同時に鳴っている様な、巨大な音の壁、とでも形容すべきでしょうか。瞬間的に立ち現れては消えて、また現れて。puhyuneco氏がモチーフとして扱い続けてきた初恋と帰り道、夕暮れの光景、それらが氏本人の過去の記憶をトレースするかのような解像度で極北へと導かれていきます。いびつに歪んでいるはずのひどく尖った曲構成でありながら、どうして自分はこれをポップスとして認識してしまうのか。させられてしまうのか。なにも分からない。


ひょっとして、自分は歌のことなんて…いや、音楽の事なんて本当は全然…何も知らないんじゃないか。これからもこの曲を聴き返す度に、そう思い返すことになるのだと思います。

 

 

 

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以上、10曲でした。


ここまで読んで下さってありがとうございました。

VOCALOID音楽の面白さをお伝えする一助となったなら幸いです。

 

私自身はボカロを熱心に聴き始めてからもう既に10余年が経過してしまいましたが、
最近は聴けば聴くほど、深みに嵌ってますます何も分からなくなっていくことに気が付きます。ボカロわからん。


さて、年が明けて2020年になりました。
次の初音ミクがVOCALOIDエンジンでは無くクリプトン社の独自エンジンを採用するとのニュースもあり、一連の音楽ムーヴメントをVOCALOID、あるいはボカロという言葉で括ることが出来るのも、そろそろ一区切りなのかもしれません。


いずれにせよこれから過渡期に突入するであろうことは紛れもない事実なので、
願わくば行く末を見届けんと、必死に食らいついていきたいなぁ、と思っています。

 

 

 

 

 


……長くなりました。

 


本当はお話したいことがもっとたくさんあるんですが、
それには余白も時間も少し足りないようなので、
この辺で筆を置きたいと思います。

 

 

さようなら。
それではまた、どこかで。

 

 

次にお会い出来たら、

その時はまた、初めましてしましょう。

 

#2018年ボカロ10選 後記

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①感傷マゾヒスト / cosMo@暴走P

 

 

ヒッキーPボーカロイド音楽の世界2017のコラムで初音ミク10周年を祝った旧世代と無視した新世代との対照性に触れた後、2018年のボカロシーンにおいても両者の違いは歴然としており、むしろその差異がより分かりやすく提示されていたようにも思えます。即ち、ボカロシーンが築き上げてきた文脈にあくまで拘り続ける旧世代と、それを飛び越えていく新世代、という構図がいまや決定的になったようにも感じるのです。
前者のボーカロイド観は「メゾン初音」などの作品に顕著で、時代が変わっても変わらぬ思い…つまりは黎明期に皆でつくり上げてきた初音ミクのイメージ、みんなの歌姫、創作の輪の象徴としての役割を彼女に担い続けて欲しいという思いが支柱になっています。しかし一方で初音ミクの登場から11年も経っていながら未だに彼女への感謝と信仰告白を止める事が出来ず執着し続けている、と言い換えることも出来、その様子はいささか盲目で自家中毒気味に映る面があることも正しく認識すべき頃合いなのでしょうか。
そんな折、平成最後の夏に暴走Pによって投稿された本作はシーンへの警鐘…と言い切ってしまうのは若干踏み込み過ぎな気はしますが、凝り固まった脳みそに一撃をくれる痛快な作品であったことは確かです。作中、有り得たかもしれない素晴らしい夏、最高の日々を過ごせた筈の夏へ…存在しない幻想に縛られる主人公を指して「感傷マゾヒスト」とポップに揶揄する歌詞は、そっくりそのまま…旧世代のボーカロイド観に対して誰かがぶつけなくてはならなかった言葉と重なります。ボカロシーンにおいて或る種の戦犯でもある暴走Pが、これ以上なく軽やかに役目を担ってくれた事実は、過去の「リアル初音ミクの消失」とも重なる部分があり…なかなか考えさせられるものがあります。殴ってやりたいけど。


かつてのシーンを支えた共通幻想が最早要らなくなり、それが歴史に成ってしまった後の世界と。そろそろ真剣に向き合っていくべきなのでしょう。

 

そうこうしているうちに、もうすぐ平成も終わります。

 

 

 

 

 

 

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申し遅れました。私、しろばなさん、といいます。

 

1年間に投稿されたVOCALOID作品から10作品を厳選し共有する、ボーカロイドファンコミュニティ年末年始恒例行事「年間ボカロ10選」も、早いもので2018年で第10回目を迎えました。

私自身もここ数年は毎回参加していまして、今回も悩み抜き10作品を選びました。
選ぶにあたっていろいろと思うところがあったので、選評と紹介を兼ねた記事を書いています。少し長いかもしれませんが良ければどうぞ、お付き合い下さい。

 

それでは続いて2曲目から!

 

 

 

②swimming club / 3-shima

 

 

テン年代を席巻したEDMの流行を契機とし、ポップミュージックの世界的なトレンドがロックンロールからダンスミュージックへ移行。しかもそれが不可逆な変化であることが決定的となった2018年。従来のJ-POPサウンドとは系統が異なるダンスミュージックの機能的な曲構造、代表的なもので言えば、歌の無いサビとも評されるドロップパートを取り入れた楽曲を耳にする機会が自然と増えてきたのは証左でもあるように感じます。ボカロシーンにおいてもこのドロップパートをどう展開させるかが数々のプロデューサーにとって近年一つの課題となっていましたが、2018年はボーカル・ドロップと呼ばれる手法を用いるケースが増えてきたのは興味深かったと記憶しています。この手法はボーカル音声を刻み・加工し・並べ直してリードシンセサイザー的に用いることでドロップパートを演出する手法で、声の楽器たるボーカロイドとの相性が抜群に良いことが以前より指摘されていたものでもあります。本来はポストEDM系の比較的BPMが速いトラックで好んで用いられる傾向がありますが、チルアウト寄りなトラックに長ける3-shima氏はchilltrapを取り入れたR&Bである本作に用いることで、また毛色の異なる演出に成功しています。歌詞をなぞることの無いドロップパートでありながら、曲名通りに遊泳するが如くノビノビと歌い上げているようにも聴こえ、不思議と説得力のある確かな展開に繋がっています。こういうのがずっと聴きたかったんですよね。また本作ではBPMが徐々に落ちるラストパートの展開もここ最近の洋楽ヒップホップやR&Bのトレンドを踏襲していて、なかなかニクいものがあります。すばらしい。

 

 

 

 

③「死について」 / シャノン

 

 

ポップミュージックの世界的なトレンドが移行する中で、古くから歌謡曲の下地を引き継ぐJ-POPにおいて、いかにダンスミュージックやブラックミュージックの要素を取り込んで現代的なアップデートを果たすことが出来るか?というテーマが国内のアーティスト達に課せられていたのも2018年を語るに避けては通れません。米津玄師の「Flamingo」や星野源の「アイデア」など、いくつか象徴的なナンバーが驚きをもって受け入れられたのも記憶に新しいところです。
翻ってボカロシーンにおいてはシャノン氏のキャリア4作目に当たる本作が印象的で、意識してか知らずか、前3作で研鑽を重ねてきた各要素を統合させる集大成的な側面が、大きな潮流と一致している点も含め非常に興味深いです。特に2作目「私は水になる」におけるジャズ歌謡のノリ、3作目「アンダーグラウンドと地生魚」におけるダブステップのビートといった相反すると評しても差し支えないであろう要素が、一つの楽曲の中で有機的に溶け合う展開は革新的な衝撃があり、またそれらを貫く厭世的な歌詞世界を歌い上げるGUMIの調声にも人間非ざる超越者を想起させるような深い魅力があります。曲中、二段階に変化するドロップパートも哀感を伴った特有のものがあり、非常に惹きつけられます。全編4分に満たない一曲でありながら…聴き終わるとまるで一つの大作映画を観終わったような、静かに深い感慨に自ずと包まれることになるでしょう。これは本当に素晴らしい。余談ですが、年末には宮下遊氏に書き下ろし楽曲を提供するなどシャノン氏自身には今後の活躍を予感させるような動きも見られ2019年も目が離せなくなりそうです。期待です。

 

 

 

④(b)rainwash / Sagishi,HeadNho

 

 

ボーカロイドを用いたHIPHOP、通称MIKUHOPの勃興が既に過去の話となった2018年のシーンでは、ファンが長い間待っていた一つのニュースがありました。それはstriplessレーベルによる3年ぶりとなる「MIKUHOP LP」シリーズ最新作「LP3」のリリースであり、これはかつて「LP1」・「LP2」に集結しMIKUHOP黎明期を創り上げたパイオニア達と彼らの影響を受けた第二世代とが一堂に会するという、シーンの成熟を如実に感じさせる出来事でもありました。SagishiHeadNho両氏による本作もその重要な一角をなすものとしてアルバムに収められています。
本作は、いつかどこかの…知らないはずなのに何故か懐かしい、そんな情緒的な夏の風景を描くリリックに心惹かれるものがあり、多用される体言止めがそのイメージを強化する大きな役割を担っています。
日本語の体言止めを多用するラッパーといえば真っ先にK DUB SHINEなどが挙がるかと思いますが、それとはまた系統が異なる…むしろ、どこか文学的な教養、
アカデミックな詩作の方法論を背景にアプローチを試みている節があり、鋭く光るナイフのようなインテリジェンスが隠せていない…否、隠す気がないあたりに、思わず心の臓を刺されます。フロウもまた特徴的で、単にラップと言うよりはポエットリーディングに近い淡々とした言葉の紡ぎ方がこれ以上なく嵌っているのも、魅力を底上げしていると言えそうです。また本作は二人の同じ非人間MC(さとうささら)によるマイクリレーであり、これは同じボーカル音声でもそれぞれ背後では違う人間が調声を行っているという事実が大前提として共有されるボカロシーンに特有の手法とも言えます。これからもMIKUHOPでは度々用いられていくことになるのでしょう。改めて考えると、ちょっと興味深いと思いませんか。

 

 

 

 

⑤Ghost in a closet/春野

 

 

ビートミュージックの革命児J・Dillaが急逝してから10余年が経過した2018年。彼が遺した音楽はその後彼のフォロワー達に引き継がれ、現在に至るまでHIPHOPの枠に収まらず現代ジャズ・ソウルやエレクトロとも結びついた独自の成長を遂げています。
その主たるものに米国ロサンゼルス周辺で発展したLA BEATと呼ばれるジャンルや、FKJに代表される最先端のフレンチ・エレクトロなどがありますが、本作がそれらの系譜上に位置する点は言及されて然るべきでしょう。単なる模倣に留まらず、国産エレクトロニカが培ってきたセンシティブな音作りに深く影響を受けるボーカロイドエレクトロニカの文脈に合流させようとする姿勢も非常に先進的です。
この手のトラックは何といっても「ヨレるビート」ないしは「モタるビート」とも評される特異なビート構成に特徴があり、グリッドやクオンタイズを活用する規則正しいループ・ミュージックの方程式を意図的に崩した、特有のうねるグルーヴがドラッギーな快感を助長します。本作はどこまでも拡がっていきそうな、しかしベッドルームから出ることは決して無い、いわば…ある種の内省的な小宇宙を描く音の洪水。知らないうちに誰かの夢に入り込んでしまったかのような、背徳感に似た抗い難い魅力が溢れています。タイトルモチーフも実にお見事ですよね。クローゼットと言えば、ルーシィ・ペベンシーがナルニアに始めて迷い込むのもクローゼットの奥からだったのを思い出します。外に閉じている、しかし知らない何処かへ確かに繋がっている箱…或いは道。或いは。或いは。エトセトラ。

流石に故事付け過ぎでしょうか?でも、そういう捉えどころが無い感じ、好きなんですよね

 

 

 

 

⑥ディスコビート・キャスター / ちゃむ

 

 

ファッションやデザインの世界でも近年ブームとなっている1980年代の文化を振り返る試み、いわゆる80sリバイバルと呼ばれるムーブメントが国内の音楽シーンにおいてもジワジワ浸透してきた2018年。
その背景は諸説あり、Satellite Youngテンテンコといった国内アーティストの活躍、vaporwave→futurefunkにおけるマクロスMACROSS82-99Moeshopといったスタープレイヤーの影響、はたまた、最近youtubeが自動再生で勝手に山下達郎の曲を垂れ流しにするから、などなど。まことしやかに語られています。実際のところ定かではありませんが、おそらく全部正しいのでしょう。
なんにせよ、ここにきて80年代の音楽を単なる過去ではなく、一つのスタイルとして捉えなおしてみよう、という気運が高まっているのはなんだか事実のようです。
一口に80年代音楽と言ってもシティポップやテクノ歌謡など、細分化すればキリがないのはさておき、一つの大きなテーマとして横たわるのはやはり、ディスコ&ファンクへの回帰です。
ボカロシーンにおいてもカド丸氏やヘンドリックスSS氏といった先進的なトラックメーカーがそれぞれの回答を提示する中、特筆すべき一曲を挙げるのであれば、ちゃむ氏による本作に触れないわけにはいきません。本作では氏のバックグラウンドと思われる邦パンクから一気にディスコ&ファンクに寄せた実験作の側面もあり、あからさまなほどゆったり、かつグルーヴィーに聴かせることに重点が置かれた、これ以上なく80sリスペクトなポスト・ロックナンバーとなっています。初音ミクの甘いボーカルとファンキーなテレキャスターがメロウに溶け合った陶酔を誘うサウンドはそれだけでも充分お腹いっぱいになりそうですが、サビで4つ打ちに移行する、という王道中の王道、ど真ん中ストレートな場面にディスコビートを持ってくる展開には抗えない魅力があり、これはもうノック・アウトもの。足腰が勝手にリズムを取ってしまいます。そうそう、こういうのでいいんだよ。こういうのが聴きたかったんだよ。最高。

 

 

 

 

➆FOOT MIKU / 磁気P

 

 

2018年は日本のJUKEことJapanese footworkが中心地たるBooty tuneレーベル登場より10年を迎え、国内のダンスミュージックにおける一大潮流としての立ち位置を確固たるものにした事実を再認識させられた年でもありました。このジャンルがここまで長い間受け入れられることになった背景には、本家シカゴのfootworkダンスを国内に持ち込みシーンとして成立させるまで普及に尽力したダンサー達の功績も大きいのですが、JUKE最大の特徴とも言えるbpm80・120・160の異なるリズムの同居それ自体が多様な解釈を可能にするプラットフォームとして機能した点が重要です。より速く、より複雑な展開が要求されるバトル・トラックは言わずもがな、ダンスを排除してチルアウトに寄ったbedroom footworkや、ナードな日本語ブートレグの文化を引き継ぐJuked outなどはほんの一例で、トラックメイカーの舵取りによって表情がそっくり変わってしまうJUKEのポリリズムにはまだまだ底知れぬ魅力が隠されていそうです。
本作の磁気Pこと旅音氏もJUKEの可能性を追求する一人。氏は長年のフィールドワークの成果である膨大な収集音源を使用した音楽制作に定評があるトラックメイカーで、近年JUKEのポリリズムを自身の音楽性に取り入れた楽曲制作に注力していることが知られていました。本作ではサンプリングミュージックとしての側面からアプローチが為されており、贅肉が無くなるまで洗練されたシンプルかつディープなポリリズムに単純音声「ど」「しゅ」「み」「く」が重ねられています。受ける印象はスタイリッシュなダンスミュージックとはまたかけ離れたもので、むしろどこか民俗的でプリミティブな呪術的舞踊、といったところでしょうか。ここでは初音ミクの音声が担っている役割も興味深く、エスニックなスパイスの様にトラック全体を味付けしている点は見逃せません。とてもユニークです。

 

 

 

 

⑧僕は広告代理店に入るよ☆I will be a wizard / Fドア

 

 

何の前触れもなく異才が現われるのはボカロシーンの常ですが、Fドア氏の登場は、2018年のボカロシーンにおける一つの事件だったと言ってよいかと思います。というか、そうでした。氏が一年間にニコニコ動画へ投稿したボーカロイド音楽作品は実に100作を越え、これはかつて全盛期のほぼ日Pに匹敵する驚異的な制作スピードです。本当になんなんだ。(ちなみにほぼ日Pは複数人体制です。Fドア氏は一人。本当になんなんだ。)単純計算で一作にかける時間が平均3日間ほどであることから考えれば、完全に手癖でトラックメイクしているとしか考えられないのですが、その「手癖」一つ一つが30分を超える壮大なアンビエントであったり、非の打ち所無くダンサブルな現代アイドルソングだったり、はたまた理解が追い付かないヘンテコなポップスであったりと、
あまりにも引出しの多い怪人じみた魔力に思わず引き込まれてしまいそうです。現時点でFドア氏の代表作と言えるのが本作。奇怪なPV表現に気圧されて即座にブラウザバックするのはもちろん個人の自由ですが、それはあまりにも早計です。最後まで聴きましょう。全編にわたってなんだか妙な"こなれ"感が溢れているのが分かるでしょうか。

打響音以外の全てのパート、すなわちボーカル、コーラス、ベース、ボイスパーカッションをすべてボーカロイドで完結させる離れ業を行っているにも関わらず、鼻歌で反芻してしまうほど明快なメロディーと進行には例えばNHKみんなのうた」を連想させる、或る種のパブリックさすら感じられ、合成音声ソフトウェアに過度な期待を持っていない…というより、限界値と塩梅を知り尽くしているかのような謎の安定感があります。本当になんなんだ。
本作の歌詞は2018年の時事ネタを拾ったブラックジョークで、人が歌ったら生々しくてとても聴いていられないほどあからさまな言葉の羅列ですが、人間で無いボーカロイドに歌わせることで「うん、まぁいいか……」と無理やり咀嚼させる強引な認識トリックが使われている点も人を食った魅力があります。降参せざるを得ません。本当になんなんだ。

 

 

 

 

⑨00 / puhyuneco

 

 

前年発表の傑作「アイドル」から一年、puhyuneco氏がセルフ・アンサーかつ自身の音楽への総決算として制作したと思われるのが本作です。00という曲名は始点かつ終点であることを示しているのかもしれません。ARCA以降のIDM極北に連なった先端の音響表現を背景に持つと予測される非常に難解なトラックながら、ボーカロイド歌唱の無垢さを最大限に引き出し組合せることで受ける印象が一転、普遍的なポップスへと仕上げてしまう力量は天才の其れと言う他無いでしょう。

本作ではpuhyuneco氏の歌詞に繰り返し立ち現れる人間と動物の対比、初恋相手の君、放課後、夕暮れの風景が反芻され、切なく苦しいモチーフが浮かび上がってきます。つまりそれは、すでにこの世に居なくなってしまった人が初恋の相手だったことに気付いてしまう、あまりにも無情な結末です。

本来、puhyuneco氏の歌詞はそれ単体を読んでも解すことが難しい。というより、誤解を恐れずに言ってしまえば至る所で躁鬱病患者のワード・サラダにも似た接続が為されており、まるで断片に引きちぎられた記憶を追体験させられているような、解しては成らない予感すらします。なのに、それなのに。あまりにも美しいメロディーとコーラスに包まれると、言葉がこれ以上なく有機的に繋がっている事が分かってしまう。
分かった気になってしまう。それが恐ろしい。『名前もしらない時から好きなのは、気のせい。』というフレーズを捻り出すまでの壮絶な感情の旅路が、格闘の痕跡が、分かったような気になってしまうのです。
これは果たして、手放しに称賛を送ってよいものなのか。いま自分は、とんでもないものを聴いているのではないか。継ぐべき言葉をこれ以上持たない事実を悔しく思います。

 

 

 

➉はつ雪 / もり

 

 

ここまで長々と読んでいただきありがとうございます。

最後は私が2018年の最初に出会ってから一年間ずっと聴いていた、もり氏によるとっておきの一曲を置いておきます。ゆっくり聴いていってください。

それにしても、雪景色を描くかすれた合成音声がこんなにも温かく感じるのは何故なのでしょうか。不思議です。ずっと聴いていたい。。

 

 

 

 

 

以下、少し雑談を。

 

私が年間ボカロ10選にかこつけて記事を書くのも今回で4度目にあたり、
当初書き始めたのが2015年末のボカロシーン低迷期であったことを振り返ると
いやはや、なんとも隔世の感があります。時間が過ぎるのは早い。

その間、一緒にボカロを聴いて楽しく遊んだ顔も知らない友人達が幾人も離れていってしまったことを思い出しては、やけに年老いた気持ちになったりもするこの頃です。
ただ、限った話ではありませんが、10代の頃からボーカロイド音楽に親しんできた自分にとって最早ボーカロイド音楽を聴く事は自分の感情や記憶を保存してもらう行為に近く、たぶんこれからもずっと聴いていくことになるのでしょう。そういうものに成ってしまいました。

 


歌っているのが人間では無い、たったそれだけの事実に一体何度救われたことか。
しかし、その信仰告白を捧げ続ける程には幼くも居られなくなってしまった今。
今後はもっとフラットに聴けるようになりたいなぁ…などと思い至る次第です。
2019年はどうやってボカロ曲を聴いていこうかな。

 


さてさて。

 

最後の夏が確かな過去になり

足早に過ぎた秋を追いかけるようにこの冬が征けば。

次の春が来て、平成も終わります。

 


やがて来るであろう「平成ボーカロイドメドレー」動画の登場と

初音ミク東京オリンピック開会式出演に期待しつつ、

そろそろ筆を置こうかと思います。

 

 


それではまた、どこかで。

 

 

#2017年ボカロ10選 後記

VOCALOIDファンコミュニティの年末年始恒例行事、

「ボカロ10選」をご存知でしょうか?

ニコニコ動画へ1年間に投稿されたVOCALOID作品から10作品を厳選、共有するこの行事は、2009年頃からはじまり2017年で第9回目を迎えました。

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2017年は「VOCALOID初音ミク」の発売から10年目にあたるメモリアルイヤー。VOCALOID音楽シーンはかつてないほどの熱気に包まれ、私個人としても素晴らしい作品にたくさん出会うことが出来ました。ボカロを聴き始めた頃には想像だにしていなかった未来にきてしまったんだなぁ…としみじみ感じます。本当にすごい年だった。。。。。

 

10作品を選ぶにあたっていろいろと思うところがあったので、今回も紹介を兼ねた記事を頑張って書きました。良ければどうぞ、お付き合い下さい。

 

それでは1曲ずついきます!

 

 

 

 

 

①SEX UNIT/PSGO-Z

 

 

2017年はEDM(エレクトリック・ダンス・ミュージック)が洋楽メインストリームにおける新興ジャンルとして爆発的なブームを巻き起こした時代がようやく終焉し、
1つのジャンルとして定着した後の時代。所謂「ポストEDM」の流れが国内においてもいよいよ顕著になった節目です。BigRoomHouse・Bounceをはじめとする
ゴリゴリ系の分かりやすい4つ打ちダンスミュージックはその役目を終えつつあり、代わりにそれらのアンチテーゼとして、かつてのハウスミュージックへ回帰
しながら新たな要素を取り込んだ、Futurehouseをはじめとするジャンルが注目されるようになってきています。

PSGO-Z氏が2015年より手掛ける連作シリーズ「AMBROSIA」の最新作に当たる本作は、そんなトレンドを如実に反映しながらそのさらに先へ進んでいます。

Futurehouseの影響が感じられるアップリフテイングでスタイリッシュなリズム構成に
Tropicalhouse由来のリゾート感あふれる音作りを融合させた、まさに…良いとこ取りのトラックは、先進的かつ革新的な魅力に溢れていると言えるでしょう。
加えて言及すべきはPSGO-Z氏の卓越したVOCALOIDプログラミング技術です。VOCALOIDソフトウェアの癖を分析し独自の調整ノウハウを構築しているプロデューサーとして有名なPSGO-Z氏ですが、本作では非常に聴き取りやすく艶のあるボーカルのみならず、スキャットを利用したリフや時々挟み込まれる合いの手(nana…)にも初音ミク歌唱を全く違和感なく使用する熟練の調整技術が炸裂しています。胸部装甲が揺れ動くセクシーな動画に気を取られている場合ではありません。ワールドクラスと互角に闘える本作のようなトラックへ不意に出会ってしまうと、ボカロ曲を聴くのがますます止められなくなりますね。

 

 

 

②まっしろ/gaburyu

 

 

futurebassが震源soundcloudより世界各地のクラブミュージックシーンへ伝播してから数年が過ぎ、そろそろ流行は収束する方向に進むだろう…という大方の予想が、
国内のコアリスナーの間で囁かれていたのが年初頭。しかし蓋を開けてみればシーンは全く逆方向…むしろ大いに発展を見せることになったのが2017年でした。
その大きな要因として挙げられるのが、中田ヤスタカをはじめとする国内に大きな影響力を持つアーティストの活躍です。特にPerfumeへの提供楽曲「If you wanna」はそれまでのJPOP文脈とは全く異なるサウンドとして、メディアにも大いに取り上げられ、futurebassはここにきて再度、未来型の新しい音楽として国内にて再定義・再認識されることになりました。
VOCALOID音楽においてはこのジャンルで若手トラックメーカーが頭角を現してきており、ゆざめレーベルの初音ミク10周年コンピレーションに曲提供した「メテオライト」
の鬼才yunomi氏や海外ラジオ”SINGLE OF THE YEAR:に「AM2:30」がランクインした後藤尚氏など、徐々に役者が揃ってきた感があります。

本作「まっしろ」を手掛けたgaburyu氏もそんな新時代のトラックメーカーの一人。

彼はfuturebassのセオリーを完全に咀嚼しつつ、自身のバックグラウンドであるSkrillex以降のbass系サウンド、ルーツであるハワイ島のイメージ、更にはゲームミュージックをも取り込んだ独自体系を提示しています。

聴いていると自然に体をゆらゆら揺らしたくなる本作「まっしろ」にて描かれているのは暑い砂浜でしょうか、寄せては返す波のようにも感じられます。それとも、それら全てを包み込むまっしろな光…すなわち、やわらかく時間が過ぎていく常夏の風景かもしれません。とても心地良い。
2017年12月にはVOCALOID×クラブミュージックの総本山的イベント「VOCALOID-ManiaX」にも異例の大抜擢でゲスト出演を果たし注目を集めたgaburyu氏。
加速度的に活躍の場を広げるその勢いは往年のTREKKIE TRAXをも彷彿させるものがあります。今後に期待したいものです。

 

 

 

③Serial/TKN

 

 

2000年代アメリカ南部のヒップホップシーンから発祥したとされるジャンル、TRAP。元来はローカルのストリートから伝播してきたジャンルでありながらアメリカのダンス・ミュージックシーンと邂逅しつつ発展を続け、現在ではポストEDM時代の屋台骨を支える筆頭ジャンルとして大きく支持を集めるまでになりました。
特徴としては太いベースサウンドとスネア・ハイハットの執拗な連続音が挙げられ、中でも上モノがチルくてクールな”CHILLTRAP”と呼ばれる種類のトラックは2017年にクラブで最も人気を得たジャンルの一つであり、本作「Serial」もそれに該当します。

ボーカル音声と、ボーカルを刻んだ音のシンセサイザー的利用。そのお互いを行ったり来たりさせつつ曲を展開させる手法はダブステップ以降のエレクトロ・マナーとして最早お馴染みではありますが、本作ではその役目をGUMIに…つまりボーカル・シンセサイザーであるVOCALOIDに担わせている点に説得力があります。TKN氏により調整を施されたGUMIのエモーショナルな哀愁ある「声」、GUMIのチルくてエモイ「音」。その二つを自在に行き来する…境界が曖昧な状態、いわば声と音のキメラと形容すべき状態はVOCALOIDの十八番とも言え、本作のドープなTRAPビートへの相性が抜群です。是非ともこれをクラブの音響下で存分に浴びてみたい!!大好きです。

 

 

 

④愛は雨のように/マグロジュース

 

 

合成音声歌唱を用いて制作されたHIPHOP、通称「ミックホップ」は2014年に新たなジャンルとして提唱されたものです……という前口上が最早必要ないほどにはボカロシーン内に確固たる地位が既に確立された2017年。当初はstripelessレーベルとその周辺に集うトラックメーカー達によるコミュニティ色が強かったミックホップも、月日が経過
する中で次第に広く浸透し、リスナーを増やし、今やミックホップを聴いてミックホップを作るようになった世代…いわば2期生とでも呼ぶべき新世代のトラックメーカー達が次々に登場する段階へ移行しています。

マグロジュース氏が手掛ける本作は、そんなシーンの移り変わりを象徴するかのような一曲。本作におけるサンプリングネタの選定、雪歌ユフによるラップのフロウ…知ってか知らずか、これらはミックホップ黎明期からシーンの立役者であるmayrock氏のトラックを自ずと彷彿させ、氏へのリスペクトを感じさせる要素でもあります。なんともニヤニヤしてしまいますね。また本作はbpmが85→170→85… と変動を繰り返すのも大きな特徴で、揺れ動く感情の波と雨音の強弱がシンクロし、自ずと胸に迫ってくるような展開が非常に興味深いです。
”2期生”には他にも、プリミティブで特徴的なリリックからボカロラップの可能性を押し拡げるTachibuana氏や、純邦楽のエッセンスを用いたメロウでムーディーなトラックを得意とする平田義久氏など。とんでもない人材がゴロゴロしています。2018年にはミックホップのコンピレーションアルバム「MIKUHOP LP」のシリーズ最新作が満を持してのリリースを予定しているとの情報もあり、ミックホップはこれからもっと面白くなりそうな予感がします。楽しみですね。

 

 

 

⑤産声上げた、そんな気がした/taron

 

 

CRZKNYが怪作「MERIDIAN」を引っ提げ全国行脚しては、各地でスピーカーをオーバーヒートさせていたのも記憶に新しい2017年。日本のJUKEことJapanese footworkのシーンは例年に劣らずなんとも賑やかな一年でした。クラブミュージックのみならずインディーロックやアンダーグラウンドヒップホップ、果てはインターネットミームに至るまであらゆる要素を貪欲に取り込みつつ膨張するこのシーンにおいて、今や咀嚼される対象の一つとしてVOCALOID音楽が挙げられているのは最早言うまでもなく、コンピレーションアルバム「VOCALOID JUKE」のリリースによって更に広く周知されるものとなりました。

当アルバムへの参加に際し自身のキャリア初となるボカロ曲を制作したtaron氏は、
その後も年間を通し挑戦的なトラック制作を続け、渾身の一作となる本作の発表をもって新たな風を吹きこむことになりました。
80、120、160のポリリズムで構成されるJapanese footworkにおいて最大の特徴とされる120の三連符、この複雑かつトリッキーなビートに日本語のリリックを乗せる試みはかねてより行われていますが実験的な範疇に留まっていたのがこれまでの常でした。その課題に対し、初音ミクに絶妙なバランスで「ラップするように歌わせる&歌うようにラップさせる」ことで、これ以上無く鮮やかに回答してみせた手腕には脱帽の一言です。何者なんだろうかこの人。今後のプロトタイプになりうるこのフロウの発明は、同時にJapanese footworkの新たな楽しみ方を提示するものでもあります。舌を巻くほかありません。

 

 

 

⑥東京ニテ/セシモ

 

 

無機質な都市空間のイメージとVOCALOID歌唱は相性が良いらしく、millstones氏のヒット作「計画都市」をはじめに、VOCALOID音楽シーンでは都市を題材とする楽曲がこれまで多く生み出されてきました。オリンピックをすぐそこに控える国際都市東京について歌った本作「東京ニテ」はその系譜に位置付けられる一曲です。

VOCALOID歌唱の特徴として、感情の欠如や当事者感の欠如といった要素は未だによく批判の的にされますが、本作においてはそういった点が楽曲の構成要素としてマイナスどころか、むしろ大いにプラスに働いている事は言及するべきでしょう。

つぶやくように言葉を吐き出す結月ゆかりの歌声は、日本語で日本の首都の事を歌っているに関わらず…歌う内容に対してどこか距離感を保っています。

「アジアの最果て」「サムライになれるかな」といった歌詞は、無機質に鳴り響くリズムと相まって、どこか他人事として見つめる超越的な感覚…エキゾチックな快感を呼び起こします。堪りませんね。

余談ですが、本作にも採用されているドラムンベースについて。

本来のニッチなクラブミュージックであるドラムンベースにおいては、そもそもこの高速リズムの上に日本語詞の歌を乗せる文化はあまり無いはずなのですが…ボカロと組み合わせる特性上、VOCALOID音楽シーンでは日本語の歌ものドラムンベースが無数に溢れる状況となっています。ボカロを聴いて育った若いリスナー世代の間では既に、歌ものドラムンベースを全く違和感なく当たり前のモノとして受け入れる状況が発生しているわけです。これって、なんだか興味深いと思いませんか。トリビアになりませんか。

 

 

 

⑦二人の食卓/ポンヌフ

 

 

ニコニコ動画においてはボカロが食べ物について歌う曲につけるタグ「VOCALOID食堂入り」というものがあります。古いボカロリスナーの間では、このタグが付いている曲はハズレが無い、という…定説があるのですが皆さんご存じでしょうか。真偽はさておき、身体を持たず食事を摂る必要が無いVOCALOIDがわざわざ食べ物について歌うという状況自体がひどく奇妙で、不思議と魅力を増大させる面があるのは事実かもしれません。本作も、VOCALOIDが歌う…そんなお料理ソングの一つです。
ジャジーでポップに揺れながら、二人で一緒に家で料理をする様子がお洒落に描かれている本作。しかし歌詞を紐解くと、実は恋人同士の二人は、明日には別れて別々の道を歩むことが既に決まっていて。最後の一日に一緒に料理して一緒に食事をして過ごす…なんとも切ない大人な恋愛の終わりが描かれていることに気が付くでしょう。

ここでもVOCALOIDの第三者的な歌唱はその効力を発揮しています。

人間ではないVOCALOIDがどこか他人事としてあっけらかんと歌い上げることで、悲しい別れの歌でありながら、確かに前を向いているような。初音ミクの平熱歌唱が聞き手の感情移入に余白を与え、ある種の救いも与えているような。そんな歌になっています。ちょっと面白いですよね。

 

 

 

⑧アイドル/puhyuneco

 

 

謎のイントロ(卵をかき混ぜる音?)から始まる本作は2017年のVOCALOID音楽を語る上で避けては通れない怪作です。不穏で緊張感のある非常に攻めた音作りでありながら、ノスタルジックなリリック、明快なメロディー、コーラス、全てが奇跡的なバランスで結合し、過去に類を見ない極上のポップ・ソングに仕上がっています。
puhyuneco氏は天才なのでしょうか。彼の頭の中に渦巻く記憶と感情がまるでそっくりそのまま描き出されたかの様な音の展開は、聴いているとまるで他人の頭の中を覗き見ているかのような錯覚に陥ります。目を背けたいのに目を背けることが許さない。本当に凄まじい楽曲です。
前述した⑥「東京ニテ」⑦「二人の食卓」ではVOCALOIDが歌の内容に対してどこか第三者的に歌うことで楽曲の魅力を引き出していると述べました。が、本作「アイドル」ではその全く逆…むしろ歌の内容と初音ミクのボーカル音声との間には一切のフィルターが存在しない完全なゼロ距離であり、初音ミクの声がpuhyuneco氏の脳味噌と完全にシンクロしてしまったかのような状態。ある種の恐怖を感じるほどです。しかしそれこそが純粋さ・無垢さといった要素を強調し、増幅装置として機能することで楽曲の魅力を異常なまでに底上げしている点は、これまた言及されて然るべきでしょう。

こういった、人間では無い代理の声…つまりは媒介存在が持つある種の拙さを利用することで逆説的に人間の心に深く訴えかける方法は、遡れば…能面や浄瑠璃人形にも見れられる伝統的な「見立て」手法に共通点を見出すことが出来る様にさえ思えてきます。
本作はその極北に位置する存在であると言って良いでしょう。
初音ミクは現代の人形浄瑠璃である、と主張したのは故 冨田勲でしたが、

彼が生前、以下の様にも述べていたことを思い出します。

 

「人形だからこそ、人間以上のものが出てくる。そういう文化が日本には脈々とあって、初音ミクはそれの電子版だと思うんですよね」

 

本作「アイドル」を聴いた後では、思わず深く頷かざるを得ません…。

 

 

 

 

砂の惑星/ハチ

 

 

マジカルミライ2017のテーマソングとして制作された本作は、初音ミク10周年というメモリアルイヤーで一番多く聴かれたボカロ曲であることに間違いは無いでしょう。
アラブ音楽のリズムを踏襲したTRAPビートのヒップホップとも解釈出来る先進的なトラックは、VOCALOID音楽シーンの内外を問わず国内のあらゆるリスナーに刺激を与えてきました。南方研究所制作のPVと一体となって世に出たこの楽曲を巡っては様々な解釈が入り乱れ、各所で盛り上がりを見せたのも記憶に新しいところです。

 

曰く、これは希望の凱旋歌だ。
曰く、違うよこれは現状のVOALOID音楽シーンを嘆いて警鐘をならす歌だ。
曰く、引き連れ歩く仲間の数はこれまで発表した楽曲の数と呼応していて~…

 

いやそうじゃない。しかし。やっぱり。実は…

 

云々。

 

 


様々な捉え方がありますがここでは少し脇道に逸れ、
なぜここにきて「砂の惑星」という題材を選んだのか?について少し考えてみたいと思います。

少しだけお付き合いください。

 

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そもそも。

 

 

マトリョシカでは「ナンバー吾」が、

ゴーゴー幽霊船では「GOGOモンスター」が影響しているように、
ハチ米津楽曲における世界観には明確な参照元が存在するケースが多く見受けられます。

 

砂の惑星はフランク・ハーバードの傑作SF「デューン/砂の惑星」を参照しているように思われがちですが、彼が描く世界観における松本大洋メビウスの影響、彼自身が心象風景として語る砂漠のイメージ等を踏まえつつ文脈を辿れば、おそらく「砂の惑星」において彼が直接の参照元としているのは


ハーバードの原作を基にホドロフスキー監督が手掛けた、いわゆる「ホドロフスキーのDUNE」であると推測されます。

 

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世界で一番有名な完成”しなかった”映画として名高いこの作品は俗に…全てのSF映画の元ネタとも呼ばれ、プロジェクト自体は失敗に終わったものの、後に続くありとあらゆるクリエイターへ多大な影響を与えた伝説の作品です。
この作品が無ければあのスターウォーズも、あのエイリアンも世に出ることは絶対に無かったと言われており。。
いわばそれは「始まりの場所」の象徴。

同時に、あらゆる創作者にとっていつか辿り着く場所、帰る場所と同義として語られます。

 


つまりハチが「ホドロフスキーのDUNE」を参照して「砂の惑星」を作った事実が何を意味するかと言えば、

 


彼は彼自身が描く世界観の中に、

砂の惑星」という精神的故郷…始まりの地点を示す歌を創造したと解釈するのが妥当でしょう。

 

 

何を言っているのか分からない??????

 

そんなハズはない。
似たような歌を何度も聴いたことがあるはずです。

 

 


たとえばハジメテノオト

”やがて日が過ぎ 年が過ぎ
 古い荷物も ふえて
 あなたが かわっても
 失くしたくないものは
 ワタシに あずけてね  ”

 

 

 

たとえばray


BUMP OF CHICKEN feat. HATSUNE MIKU「ray」

”大丈夫だ この光の始まりには 君がいる”

 

 

 

 

 

たとえばアンノウン・マザーグース

”ねえ、あいをさけぶのなら
あたしはここにいるよ
ことばがありあまれどなお、
このゆめはつづいてく
あたしがあいをかたるのなら
そのすべてはこのうただ "

 

 


そうです。我々はこの種の歌が示すところを既に知っている。

 

 

ハチが米津玄師になってから、早いもので2017年で既に5年がすぎました。
今や押しも押されぬトップアーティストとなった彼ですが、
背負い続けた「ボカロ出身」の十字架の重さはいかほどか。
想像することすら出来ません。

 


かつて置き去りにして殺し仰々しい葬送まで行って切り離した自らの初音ミク
それなのにいくら振りほどこうとしても未だ振りほどけないかつてのパートナー。

呪縛に近い愛憎があるはずです。

 

 

ならばもういっそ、もう一度自らに取り込んでしまえばいい。
自分の「砂の惑星」で、いつでも帰りを待っていてくれるのだと。
赦しを与えてくれる存在なのだと
そうしてしまえばいい。

 

なぜなら彼の初音ミクにとって現在と過去は等価であり、

ふたつは未だに進行形で闘っているからです。
過去の結果として現在があるなら、現在を正すためには過去を書き換えて

田園に死す必要があったのです。

 


つまり、だ。

過去を上書きして因果は逆転。
殺したはずの初音ミクはずっと生きていて自分の帰りを待っている。

 

 

そういうことにしたかった。
そういうことにしようとした。
そういうことにした。

 

 

そして、そういうことになった。

してしまった。

 

 

米津玄師がハチに施す救済でありサイコ・マジック。
米津玄師版「ハジメテノオト」の創造。

 

それが砂の惑星の正体です。

 

なんとも個人的で捻くれた、愛おしいバースデーソングだと思いませんか。

 

 

「あとは誰かが勝手にどうぞ」と

初音ミクにずっと言って欲しかったのは、
きっと米津玄師自身です。

 

 

 

 

 

⑩リアリティーのダンス/ATOLS

 

 

ホドロフスキー監督の同名映画をタイトルに引用したと思われる本作。

「自分の制作スタンスは常に何かのアンサーである」というATOLS氏本人の主張を
踏まえると、「ホドロフスキーのDUNE」を参照している前述⑨「砂の惑星」に対するアンサーソングであるのかもしれません。

dancehollのゆったりしたリズム構成とtropicalな音色に、優しいボーカルがこれ以上無く馴染み、ATOLS氏の従来の作風とは一線を画すこの冒険的なトラック。

まるで目を覚ましながら夢を見ているかのような、不思議な浮遊感に満ちています。

作中で「キミとたまたま出逢えたら」と何度も歌う初音ミクの歌唱は、もう決して
出逢うことが出来ない何かを悟っているようであり、それでいながら人間の様に悲しむこともなく、ただただ諳んじるように進んでゆきます。

こちらを見つめ、決して目をそらさずにゆっくり近づいてくる黒猫もまた、同じく人間ではありません。

 

ずっと聴いていると、何故だかぼろぼろ涙が零れてきます。

 

何故だろう。

本当に何故だろう。

 

優しい曲です…

 

 

 

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以上、10曲でした。

興味を持った曲が1つでも見つかったのであれば嬉しいです。

 

そして、ぜひとも私だけでなくほかの方のボカロ10選も巡ってみて下さい。
それぞれに詰まった音楽の面白さが、貴方には感じとれるハズです。

 

twitter.com

 

 

そうこうしているうちに、もう2018年になってしましました。

 

あれから何年も経ったけど、私はいまだにVOCALOID音楽が大好きです。

 

今年もたくさんボカロ聴きます。

 

 

 

 

 

#2016年ボカロ10選 後記

VOCALOIDファンコミュニティの年末年始恒例行事、

「ボカロ10選」をご存知でしょうか?

ニコニコ動画へ1年間に投稿されたVOCALOID作品から10作品を厳選、共有するこの行事は、2009年頃からはじまり2016年で第8回目を迎えました。


2016年はボカロシーンが近年の低迷期を完全に脱する盛り上がりを見せた記念すべき年で、これでもか!というばかりに多くの素晴らしい作品に出会うことが出来ました。個人的にも非常に楽しい一年でありました。感謝。感謝です。

10作品を選ぶにあたっていろいろと思うところがあったので、紹介を兼ねた記事を今回も頑張って書きました。良ければどうぞ、お付き合い下さい。

 

それでは1曲ずつ、どうぞ!

 

 


①peps/lightspop


soundcloudに生息するオーストラリアのエレクトラー達から広がってきたジャンル、Future Bass
トラップ・ミュージック以降のリズム構成を軸にしながら、日本のゲームBGMからのサンプリングやキラキラしたシンセの音色が特徴的な、"kawaii"をキーワードとしたこのジャンルは、勃興期より北米を中心とする世界各地のクラブミュージックシーンに影響を与えてきたと言われています。

ところで皆さんは、2014年にcosmo's midnightが発表したマスターピース的楽曲「moshi」によって、ボーカロイド歌唱が”kawaii”サウンドであることを海外から逆説的に発見されてきたことをご存じでしょうか?
それから2年、2016年のボカロシーンでは非常におもしろい動きが見られました。海外から国内にもたらされたFuture Bassと、ミクノポップ(ボーカロイドを用いたテクノポップの通称)の邂逅です。
市瀬るぽ氏やシカクドット氏のように自身のポップ・センスに完全に取り込んでしまう例。Daphnis氏のように手玉に取った音遊びにまで昇華している例など多数ありますが、2016年言及すべきはlightspop氏でしょう。
2013年に不朽のミクノポップナンバー「ポンコツセカイ」を世に送り出した氏の歩みは、2ndアルバム「sineshaper」における四つ打ちエレクトロの研究を通過点とし、
本作pepsにて新たなステージに到達しています。ベッドが軋むような音、スネアドラムの連続音、包み込まれるような大胆なシンセ使い、物憂げに…それでいてこれ以上なくのびのびと歌い上げる初音ミク歌唱。ここでは図らずも本来のミクノポップが持つかわいいイメージと"kawaii"が邂逅しているのです。その膨大な情報量を3分に満たない尺の中でまとめ上げる力量には舌を巻くほかありません。

これです。これが2016年のボカロなんです。 

 


②たたたたたー/HastyHat


日本国内、特に若年層における認知度が近年大きく上がってきたEDM(エレクトリック・ダンス・ミュージック)。その中にはサブジャンルの一つに「Bounce」と
呼ばれるジャンルがあります。その名の通り、聴けば思わず体が跳ね上がってしまうような、過剰なまでに大胆なキックとそれを強調する極端な曲展開が特徴で、
パーティーミュージックかつ一種のドラッグ・ミュージックでもあるこのジャンルはEDM愛好家…すなわちパリピと呼ばれる層に非常に人気が高く、2016年も各所のクラブやEDMフェスで多数スピンされました。
さて、ボーカロイドを用いたEDM楽曲がボカロシーンに現れてから、2016年の時点で早4年ほど経ちます。ボーカロイドが歌唱ソフトウェアである特性上、ボカロシーンには所謂歌ものEDMの形態をとる楽曲がどんどん供給され、ボカロリスナー側もそれを希求する傾向が現れ始めてきました。そんな中、ボカロシーンの傾向などお構い無しに突如本作、Hard Bounceど真ん中な楽曲を引っ提げ登場したのがHastyHat氏です。

本作ではどこか中東を彷彿させる旋律と、不穏な雰囲気を醸し出すGUMIのボーカルによってビルドが徐々に進行する…かと思いきや、

たったの50秒でドロップ。絶頂に至ります。最高です。最高。

最高にあたまがわるくて最高。バウンシー&バウンシー。ただただ、たのしい。跳ねたい。踊りたい。ドロップ部でベースに溶け込むようなGUMI歌唱も最高THE最高。

(ちなみにHastyHat氏の2016年における制作楽曲はこちらにて全て配信されています。全26曲。ヤバいからみんな聴いて)

 

ちなみに2016年における世界的な情勢としては、米国ラスベガスにおけるEDMシーンの縮小に伴い「EDM is Dead」(EDMの死)が俄かに囁かれはじめています。変容の時期を迎えるEDMですが、日本国内におけるブームが収束するにはまだまだ早いでしょう。2017年のEDMシーンと、それを取り込んだボカロシーンではどんな展開が見られるのか。今後も要注目です。

 

 

③あまがみのこども/やながみゆき


EDMが変容の時期を迎える一方で、2016年に音楽のトレンドとして世界的に注目を集めたジャンルの一つに「トロピカルハウス」があります。
このジャンルの立役者であるノルウェーのプロデューサーkygoがリオ・オリンピック閉会式でのパフォーマンスを務めたことや、その後緊急来日しULTRAJAPAN2016への出演を果たしたことなど。新たな潮流を象徴する動きがあったことは2016年のエポックメイキングとして語られるべきでしょう。
通常のハウス・ミュージック(bpm128がひとつの基準とされている)よりゆったりなbpm105~110で聴かせるこの新たなジャンルが描くのは、アッパーでハッピーな分かりやすい南国感ではなく、むしろイメージとしては海辺のリゾートの夕暮れ…あるいは、ゆったりとした「楽園感」に近いものがあります。
ボカロシーンにおいて、そんなトロピカルハウス由来の音作りをいち早く取り入れているのがやながみゆき氏。本作では更に一歩進んだ、言うなれば日本語トロピカルハウスと呼ぶべき新たな境地が開拓されています。
透き通るようなシンセとアコースティックサウンド、それらに相性抜群な初音ミク歌唱をビルド&ドロップの構成で聴かせる。基本フォーマットを確実に抑えながら展開されるのは、本人が「ジブリっぽい」と評する、どこか懐かしく、そして湿度を感じるサウンドです。空想上の”ひかりのあめがふる島”のイメージとでも言いましょうか。
本来のトロピカルハウス…つまり比較的乾燥した気候に住む人たちの想像する「楽園感」とは全くの異質ながら、湿潤な島国に暮らす我々にとっては何故か腑に落ちる「楽園感」であること。その表現が秀逸であり、驚異的ですらあります。本当に素晴らしい。

 


④lonely dance for me/逆子

 

日本のJUKEシーンとって、2016年は節目の一年でした。JlinとTheater1…所謂JUKE第二世代の邂逅や、TRAXMAN VS JAPANESE JUKEのリリースといった事件はシーンの躍進を象徴する出来事だったと言えるでしょう。2015年末に「彼らは忠実なコピーを作ろうとしたが、結果としてオリジナルの”fun-house version”を作り上げてしまった」
評されてから約1年、いまや日本のJUKEは本場シカゴのシーンにまで影響を与えるまでに発展しつつあるようです。
2016年のボカロシーンにおいても、その影響からか、新たにJUKE的要素を取り入れるトラックメーカーが増えてきました。ゴミ氏ニックネーム氏の楽曲におけるトリッキーなリズムの活用はまさにそれですし、シンカミヤビ氏のように自身の怪しげな世界感を強調する要素として取り入れている例もあります。
様々なアプローチが見受けられますが、その中でも2016年の特筆すべきを一人挙げるのであれば、それは間違いなく逆子氏です。
本作ではbpm80のゆったりしたアンビエントR&Bが、そのテンションを保ったまま曲中で倍速のJUKEに変化するのが特徴で、突如一斉に降り注ぐ初音ミクのボイス・サンプルが陶酔感を誘います。逆子氏の手がけるトラックはクラブ現場での鳴り方…フロア仕様を間違いなく意識しているように見受けられますが、どこか落ち着いて飄々としています。本来黒人ダンサーによるfootworkダンスの文化と一体になって発展してきたJUKEにおいて、肉体的・肉感的なイメージを伴わないのにダンサブルな逆子氏の楽曲は異色そのもの。曲名通りいわば汗もかかず、誰とも会話せず、一人フロアで黙々とfootworkダンスする初音ミク。そんな奇妙なイメージに合致します。

なんとも興味深いですね。
2017年には抹殺レコーズとOMOIDE LABELの共同企画によるボカロJUKEコンピレーションアルバムのリリースも予定されており、まだまだボカロ×日本のJUKEの展開から目が離せません。期待です。

 

 

⑤曖昧さ回避/ポリスピカデリー


機械の歌声をどれだけ生の人間歌唱に近づける事が出来るのか。歌唱ソフトウェアを用いた音楽制作において、それは永遠のテーマである、と誰もが思っていました。


思って”いました。”というのは、もはやそれは過去の話であるからです。本作の登場により、その幻想は2016年をもって終焉することになりました。
一聴すれば理解できる通り、本作における闇音レンリの歌唱はまさに”人間”そのものです。歌っているのが人間ではない合成音声であることを知っていなければ…いや、知っていたとしても、もはや人間の耳で判別できる領域をはるかに超えてしまっています。
元来ボカロシーンにおいてはボーカロイドプログラミング(調教、調声とも呼ばれる)の上手さをアピールする場合カヴァー曲を用いるケースが多く、神無月Pcillia氏
タカオカミズキ氏といった”神調教師”達はその文脈の中で名を馳せてきた実績があります。つまり、確かな比較対象があることを前提としていたわけです。
が、曖昧さ回避は完全なブレイクスルー的作品でありながら、正真正銘イチからのオリジナル曲として世に出てきてしまいました。

例えばの話、この曲が街角で流れていたとしたらどうでしょう。一体どれだけの人間が、機械が歌っていると気付くのでしょうか。
この先あなたが人間の歌を聴いたとき、その歌を歌っているのはその実、人間ではないかもしれない、そんな未来が、そんな時代が来るのかも…否、既に来ています。 

 


⑥アダルトファイア/iNat

 

ボーカロイドにセクシャルな歌詞を歌わせること。ボカロ黎明期よりデッドボールPまだ仔氏をはじめとするパイオニアによって切り開かれてきたこの文化は、
「大人の事情」として週刊ボーカロイドランキングからの除外、つまりボカロシーンのメインストリームにおいて無かったことにされながらその実、脈々と受け継がれてきました。
2016年のボカロシーンにおいてもそれは健在で、数多のクリエイターの手により、もはや単にセクシャルな歌詞を歌わせる、それだけに留まらない新たな展開を見せ始めています。
まさ氏はセクシャルな歌詞とドラッグ・ミュージックを用いて堕ちていく肉感を、

ねこむら氏はセクシャルな歌詞とアンニュイなバラードを用いて遣る瀬無い感情を、
そしてiNat氏は本作にてセクシャルな歌詞とジャズR&Bを用いて綱引きにのめりこむ男女の情感を、描いています。
ラップする人間の男性(バファ氏)の対存在として描かれる本作において、甘く揺れる声で初音ミクが演じるのは、「SEXなんて挨拶代わりよ」「抱いてあげてるのはこのあたし」といった、従来の恋する16歳像(本作の初音ミクが言うところの”小娘”)とは対照的な女性像。しかし、しかしです。どれだけ華麗に歌っても初音ミクは人間では無いので身体を持っていません。強いて言うならば唯一の持っている身体は「声」。それだけです。その唯一の身体を駆使してバファ氏のラップにどれだけ上手く返しても、
「抱いてあげてるのはこのあたし」が叶うことは無いわけです。せつないですね。せつない。そして、ゾクゾクします。その倒錯が堪らない。

 


⑦サンキュー虚無感/羽生まゐご


ボーカロイド歌唱…とりわけ初音ミク歌唱に顕著な特徴として、歌声が非常にフラットであることが挙げられます。このフラットさを利用した落ち着きのあるポップスを、私は便宜上「平熱のポップス」と呼んでいますが、実はこれ、ボーカロイドの十八番と呼べるのではないか、と最近は思っています。
アンビエントな導入部からゆっくり始まる本作は、油断しているとポップスの魔法にかけられて奥へ奥へと引き込まれます。兎にも角にも、本当にメロが素晴らしい。無限に繰り返されるかと思うほどに吐き出され続ける「サンキュー虚無感」という歌詞の意味はよく分かりませんが、おそらく分かろうとする必要も無いのでしょう。
身を委ねて、ひたすら揺蕩う。気持ちいい。不思議な、しかし圧倒的なポップスです。

ここでは暑苦しい感情も、冷め切った劣情も一切必要ありません。必要なのは人間ではないボーカロイドの歌唱による平熱感。人間には出せない平熱感こそが必要なのです。
フラットな歌声は、いわば「器」なのかもしれません。より聴き込むことで、その歌声に聴き手の想いを投影することができる真っ白な器。そう考えると、なかなか面白いですよね

 

 

⑧人間たち/松傘,mayrock,sagishi,緊急ゆるポート,trampdog,しま


ボーカロイドのような合成音声歌唱を用いた音楽、いわば人間では無いモノが歌うのが当たり前の音楽を長年愛好していると、逆に人間のことが気になってくるというか…。
非人間に触れることで逆に人間というものが露わになってくる部分って絶対あると思うんです。というか、あるんです。

そんなのある種の倒錯に過ぎないだろう、と笑われるのは承知の上で言っていますが、巷ではVR元年と呼ばれ、囲碁AIが人間に圧勝し、ポケモンを追って町中に人間が溢れる2016年において、自分の妄言がどんどん妄言で無くなっていく感覚はなんとも奇妙なものです。

 

本作「人間たち」は2016年の人間賛歌です。つまりは倒錯の音楽です。

ミク、テト、ささら、三体の非人間がマイクリレーでラップを繰り出し、トラックは生演奏一発録りといったジャズヒップホップ。ここでは何もかもが逆立ちをしてしまっています。意味が良くわかりません。何回も分かろうとしてみましたが、さっぱり分かりません。謎です。なんだこれは。2016年いいかげんにしろ。

ミクのふにゃふにゃした化け物フロウも、テトの人間を食うようなフリーダムっぷりも、優等生のような顔をして一番ネジが飛んでるささらも、知らんこっちゃないと荒ぶるトラックも。本当によくわからない。ただただ、なにやら観てはいけないものを観てしまったという感覚だけが残ります。

なんなんだこれは。毒か。

これから何年もかけてじっくり体を蝕んでいってくれそうです。最高だ。

 

 

⑨妄想感傷代償連盟/DECO*27

 


2016年ボカロシーンの復権を支えた最大の功労者でありトップランナーであり続けたのがDECO*27氏であることに、もはや異論の余地はないでしょう。
年始に投稿したモンスター楽曲「ゴーストルール」から続く計5作品によって新たなリスナー層の取り込みと活気をシーンにもたらし、もうあの時代は来ないと諦めかけていた我々に、新たな展開を見せてくれました。
サウンド面でも如実な変化が見られ、特にそれが象徴的な本作においてはDECO*27氏従来のヒット路線である王道ポップ・ロックから脱したダンサブルな横揺れのディスコ&ファンクビートを導入するなど。その歩みは留まることを知りません。 

 

 

…と、まぁ色々述べてきましたがそんなのは横に置いて。

少し別の話をしましょう。

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 DECO*27氏が2016年に投稿した5曲全てを含む全13曲を収録した5thアルバム「GHOST」は2016年を象徴する1枚です。

あなたはもう聴きましたか。

 

メジャー5枚目にてようやくジャケットにその姿を現した初音ミク

このアルバムでは、初音ミクの明確な「死」と、それに向き合った人間( DECO*27)が描かれています。

 

 

 

えっ?何を言っているのかって?初音ミクが死ぬわけないだろうって????

あなたこそ何を言っているんだ。

 

 

初音ミクは死ぬんだよ!

 

 

…確かに、総体としての初音ミクは。インターネット・ミームとしての初音ミクは。

タグとして、分類記号としての初音ミクは死なないかもしれません。

 

 

しかし、記号の初音ミクから分離した個々の初音ミクは、

うちの「ミクさん」は。

イマジナリーフレンドとして人間に寄り添う初音ミクは。

時期を迎え役目を終えたら死んでしまうんですよ。

 

 

幼児がいつの間にか玩具の機関車で遊ばなくなるように。

学生時代に毎日聴いていた音楽と徐々に離れても大丈夫になってしまうように。

漂流を終えた虎が別れを告げることなく林の中に消えていくように。

「ミクさん」は死んでしまうんですよ。もう知ってるんだろ。誤魔化すな。

 

 

「GHOST」では、最初の「ミクさん」が死んだことに気付いた DECO*27氏が、その悲哀と執着を…今隣に寄り添っているいわば2番目の「ミクさん」に歌わせる構造になっています。昔の女への未練を、今の女の口を通して語っているわけです。

12曲も使って同じ話、最初の初音ミクとのお別れを何度も何度も繰り返し続け、やっと呪縛から解放される…と思いきや

「アルバムをリピートすると、またアタマに戻るっていう。曲順にはすごくこだわったので。」

と自身が述べる13曲目「at」にて、物凄い爆弾が突如放り込まれます。

 

『きみのいない白い部屋で

 僕はいつか寝れるのかしら

 

     :

 

 バカだな 今きみの眠る隣で

 こんなことばかりを思う僕は

 何度も向き合って目を塞いだの

 君は隣でいびきをかいてる   』

 

最後の最後で”きみ”が揺らぎ、最初の「ミクさん」と2番目の「ミクさん」を意図的に取り違えて振り出しに戻ってしまいます。

無限に繰り返すつもりなのです。

 

…もうここまでくると、これは最早人間の所業ではありません。業が深すぎる。

もはや人間を辞めてしまった、言うなれば修羅としての覚悟そのものです。

この修羅が持つ初音ミクへの愛憎と執着こそが、2016年のボカロシーンを支えていた得体のしれない膨大なエネルギー。だったのかもしれません。

 

 

しかし、しかしです。

我々は、そこまで強くなれないんです。

修羅にはなれないのです。

なぜなら普通の人間だからです。

 

だからそろそろ、ちゃんと伝えなくてはいけません。

私の、そしてあなたの「ミクさん」に。ちゃんと伝えるべきなんです。

そうでなければもう一歩も前に進めないんだって、

もういい加減分かっているでしょう。

 

 

では言いましょう。ちゃんと言いましょう。
私と一緒に、ちゃんと言いましょう。
今言わなければこの先ずっと伝えられないでしょうから。
それぞれの2016年を終わりにするために、言いましょう。伝えましょう。
2017年に進むために、今、ちゃんと伝えましょう。

 いま。

 

 

 

 

 

 


『はじめまして初音ミクさん。
 またお会いできてうれしいです。
 ずいぶん時間がかかったけど、
 あなたに一言だけ伝えたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「私は、あなたの事を愛してました。」

 

 

 

 

 


 突然でごめんなさい。聞いてくれてありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 もう、昔の話です。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遺伝子組み換えライ麦畑/小西


”でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、
 小さな子ども達がいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、
 僕はいつも思い浮かべちまうんだ。”

 

いったん終わりを認めたらこんなに清々しい気持ちになるなんて
誰も教えてくれなかったじゃないですか。本当にズルいですよね。

とりあえず一周クリアした後で、二週目がどうなるのかは正直見当もつきませんが。
それは二週目の私が、人間が勝手に悩むことなので、申し訳無いとは思いつつ
ここでは割愛させて頂きます。

 

その前に少しだけ、ほんの少しだけ死にたくなってもいいですか?って
そういう話。そういう話をね、したかったんです。

なぜなら私は人間だからです。

 

それだけなんです。
お付き合い頂き有難うございました。

お願いだから、ここにはもう来ないでください。

 

 

…これだから人間は。

 

 

 

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以上!10曲でした!いががでしたか?
ボカロ音楽の面白さに、少しでも興味を持って頂けたのであれば幸いです。
そしてそして、ぜひとも私だけでなくほかの方のボカロ10選も巡ってみて下さい。
そこに詰まったアツい思いが、アナタには感じとれるハズです。

 

さぁ!いよいよ2017年です。
初音ミクも10周年を迎える記念すべき年です。


よし!今年もたくさんボカロ聴くぞー!!!!